3.晉の三家分裂から魏の興隆と衰退 |
3.晉の三家分裂から魏の興隆と衰退(晉陽之戰から馬陵之戰へ) BC453年~BC342年 資料引用:ウィキペディア 以下年表も同様 ▲ 晉で、四大氏族の智氏・趙氏・魏氏・韓氏が戦い魏氏・韓氏が寝返りして、智伯の死、晉の趙・魏・韓の三国分立と続いて、戦国時代の幕が開きます。これが晉陽之戰(四五三年)です。 ★以下、△印の箇所をクリックして頂きますと、「中國哲學書電子化計劃」のサイトの「戦国策」該当部分が出力されます。以下同様です。 [△過大な進物には、要注意(六五):(晉の智伯が衛を討つため、友好を装い良馬などを贈ってきたのを衛の宰相南文子が訝かり、王に国境守備を進言し、難を逃れた話。)] [△与えよさらば与えられん(五四):(斉の知伯=智瑶が、土地を要求してきたのを拒否した魏桓子に、家臣の任章が、相手を負かしたいならまず助けよ、との助言をし成功した話。)] [△寝返り予兆を察する技法(五〇):(知伯が、韓、魏の軍を率いて趙を攻め、あと少しの所、郄疵が韓、魏の君の行動から寝返りを予測し、その通りとなった話。)] [△土地は広さよりも地の利(六七):(三晉=趙・魏・韓が知伯を破り、土地を分ける際に、韓の段規が韓王に、広さでなく地の利で選ぶように進言し、成皋=せいこうの地を得た話。)] [△智伯のため三度の仇討ち(士は己を知る者の為に死す)(一一):(晉の豫讓は、趙の襄子に自分を寵遇してくれた知伯が殺されたため、その仇を討つため、三度、襄子を襲ったが、果たせず、最後に自刃した話。)] 同じ頃に、陳・蔡・杞は楚に、曹は宋に、呉は越に滅ぼされました。 以下、まずは一定期間の戦国七雄どうしの戦歴を把握しておきます。○●印は勝敗、()内は将軍名等です。▲戦名は、戦地名等で「○○之戰」、戦いは終了年順です(以下同様)。 ★前四〇八年~前三八一年の戦歴 ○魏(吳起) ●秦 :河西之戰:前期(かせい) ○魏 ●中山:魏滅中山之戰 ○魏+趙韓 ●齊 :三晉伐齊之戰 ○魏(吳起) ●秦 :陰晉之戰(いんしん) この頃、姜齊~田齊に移行します。魏は図の中央に位置し、所在地は、中華文明の発祥地の黄河中下流域にある平原地帯で、中原(ちゅうげん)と呼ばれます。この時期に、魏は浮き沈みします。魏の名君で半世紀に及ぶ治世の間、国力を増した文侯の話があります。 [△部下との約束も違えるな(四五):(魏の文侯が、猟場の役人との約束を厳守し、部下との信義を重んじた話。)] ▲ [△似て非なる者を見極めよ(一六):(魏の文侯が、鄴の県令に赴任する西門豹に、功成り名を上げる術を聞かれて、賢人の言に耳を傾け、似て非なる者を見極めろ、と助言した話。)] 河西之戰前期(四〇八年)に軍人吳起(孫子、子孫の孫臏=後出と並ぶ兵家、後に法家)、政治家で法家の李克が、後に武侯となる太子と共に秦と戦い、大勝し、魏は戦国時代初の覇国となりました。呉起には、負傷兵の膿を口で吸い出した、との逸話も残っています。戦いを追いがちですが、将と兵との人情の機微なども見逃せません。 法家は法で国を統治する考え方で、韓の申不害、楚の吳起、秦の商鞅、李斯らが内政を固めました。▲魏は魏滅中山之戰(四〇六年)で中山国を、そして三晉伐齊之戰(四〇四年)で、齊を破ります。 この背景には、齊国内での内乱があります。三八六年には太公望以来の姜(きょう)氏の家系は断絶し、齊は、姜齊(きょうせい)から田氏の田齊(でんせい)に代わります。魏は陰晉之戰(三八九年)でも、吳起の指揮のもと、秦に勝利します。 ★前三八一年~前三四二年の戦歴 ○趙+楚(吳起)●魏 :棘蒲之戰(きょくほ) ○趙韓 ●魏 :濁澤之戰(だくたく) ○魏 ●趙韓 :澮北之戰(かいほく) ○齊(孫臏) ●魏(龐涓):桂陵之戰(けいりょう) ○齊(孫臏) ●魏(龐涓):馬陵之戰(ばりょう) 魏は、文侯の子、武侯の治世が四半世紀続くますが、▲武侯の後継者争いの際に、趙韓に付け込まれ、恵王は父武侯の後継者となります。 戦国時代の国内事情、対外事情を概観します。為政者に多くの妻、太子、家臣がいて、相争っており、更には、父王の権勢を背景に羽振りが良かった家臣が、前王の死後に新王との折り合いが悪くなるなどの様々な人間模様が展開しました。他方、各国は自国のため、他国と連携し、姻戚関係を締結し、人質、土地、宝石、美女など贈りました。特に兵法三十六計「美人計」は、味方に負担なく敵に戦意喪失させ、敵兵の不満を持たせる良策でした。 魏は、棘蒲之戰(三八一年)で、政争を逃れ、▲楚に鞍替えした吳起率いる楚に敗れます。要人が他国へと、頻繁に鞍替えした時代です。 濁澤之戰(三六九年)で、内紛の際、趙韓連合に敗れた上、河西之戰後期(三三〇年)、秦に敗れ、河西之戰前期に奪った領土の総てを失います。澮北之戰(三六二年)で趙韓連合を撃破しますが、桂陵之戰(三五三年)、馬陵之戰(三四二年)で齊に敗れます。魏の龐涓(ほうけん)、齊の孫臏(そんびん)の両将軍とも同門でしたが、龐涓が孫臏の技量に嫉妬し、冤罪に陥れ、両足切断の刑にした、との因縁の仲でした。 孫臏は、齊威王の将軍、田忌の知遇を得ます。切っ掛けは、威王主催の競馬です。兵法三十六計に、桃に代わり李倒れる「李代桃僵」があり、三頭ずつの馬の上中下で、相手の上に自分の下を充てることで、二勝一敗で勝てる旨を孫臏が教えました。 田忌自身も、火事場泥棒的な計略「趁火打劫」で、燕を攻めました。 孫臏は、「囲魏救趙」、つまり趙の邯鄲を攻める魏軍に立ち向かうのではなく、▲魏の大梁を包囲して、引き返した魏軍を、桂陵で破りました。 また、「擒賊擒王」の策で竈の数を減らしつつ退却を装って、日暮れの敵兵到着を予想し、道端に不審な立て板を用意、それを見るため松明を灯す龐涓に矢を浴びるなどして、積年の怨念を晴らしました。 魏の恵王の治世は半世紀に及びましたが、国力は衰退してきます。 [△市に虎?三人言えば真実(九六):(魏の大臣龐蔥=ほうそうが、魏の太子とともに趙に人質として行くに先立ち、魏王に会った際に、三人に市場で虎を見たと言われれば、嘘でも信じる旨告げ、讒言に惑わされないように言ったが無駄だった話。)] 荘子の友人恵施(けいし)は恵王、襄王仕えましたが、諸子百家では、名家(論理学者)として有名です。 [△王者度を得、覇者計知る(六二):▲(馬陵の戦いで、斉に負けた魏王に、荘子の友人恵施が、斉への全面戦争ではなく朝貢を勧め、斉の宰相田嬰がその提言に乗り、斉が楚にも朝貢を要求したことで、楚に返り討ちにあった話。)] [△十人で植え一人で抜く楊(九五):(魏王に仕え高位にある田需に、荘子の友人恵施が、植えるに難く、抜くに容易い楊の譬えで、その地位を守るために、王の側近と仲良くするように勧める話。)] [△葬の日大雪、民思い止む(八一):(魏の惠王の葬儀を予定した大雪の日に決行しようとする太子を、公孫衍(犀首)が止められず、荘子の友人恵施が、周の文王の父王季歴の葬儀の事例を引いて、葬儀延期とさせた話。)] 魏のために、楚に向かい、宰相の昭奚恤(しょうけいじゅつ)とやり合った人物に、江乙がいます。当時、南方の楚は、四半世紀を超える宣王の治世下にありました。 ▲ [△揣摩=人の気持ちを推量(四八):(楚の宰相昭奚恤が、客人から他人の家の払い下げを依頼され、断った際の相手の言動から、巧みに、その心中を推し量った揣摩憶測の話。)] [△虎の威を借る狐を畏れる(八七):(江乙は、楚の宣王に、北方諸国が宰相昭奚恤を恐れているのは、ただ虎の威を借る狐に過ぎないとする話)] [△井戸に小便、犬露見恐る(八八):(江乙が、楚の宰相昭奚恤を、井戸に小便した犬に譬え、魏と結託している旨、楚の宣王に謗る話)] [△臣下が争う内、君は安泰(八九):(臣下が争う内は、君は安泰、逆も真、王は人の評判も悪評にも耳を傾けるべき、と江乙が昭奚恤を謗る話)] [△力不足に、友の援軍求む(五二):(江乙は、自分の力不足を補うため、魏から来た山陽君を味方につけ、昭奚恤を謗った話)] [△謀るに長じ機を見るに敏(一四):(江乙の楚宣王に奉じる勧めを時機を見てした安陵君、江乙は謀るに長け、安陵君は機を見るに敏とする話)] 秦、韓、齊の動向を見てみます。中国では、古来より「水を治める者、国を治める。」の言の如くに、治水、農業振興は、為政者の命運をも左右しかねない重大事でした。魏に領土を奪われた秦は、孝公の時代に、魏から来た法家の商鞅(しょうおう)を起用、国政改革を行い、商鞅の変法改革が奏効し、領土を奪い返し、辺境の後進国を脱し▲強大国となります。 その内容は、第一次では連座制、農業重視、軍功奨励・私闘の禁止、第二次で咸陽遷都、農業奨励、父子兄弟の分居、度量衡統一、県の設置など、農家戸数を増やし、農業生産力を増強させ、富国強兵、隣国を攻撃、国土の拡張を目論むもので、鉄製の農具、武器の使用も盛んでした。 法の浸透は広く及び、恵文王の代となり身の危険を感じた商鞅が都を逃亡中、宿を求めた際に、宿主に、旅券なしでは泊まれない法律と言われ大いに落胆したそうです。 恵文王は法を維持し、また君主呼称は公から王になりました。 韓は鄭を滅ぼしたものの、戦国七雄の最弱小国です。西の秦、北の魏に対抗して趙と連携しました。▲法家の申不害の改革のお陰で国内が安定し、他国の侵略を免れました。 [△魏の聶政、姉も傑物弟想い(六):(刺客聶政は、嚴仲子=嚴遂の仇討ちで、宰相侠累=韓傀を殺したが、身柄が知れない形で自死し、晒され、身柄を世に問われたが、その姉は、弟の名が埋められるのに耐えられず、名乗った上で、自死した話。)] [△申不害教え守る名君昭侯(七五):(臣下の申子=申不害が從兄の仕官を求めたのに対して、昭侯は、情実で決めることは、申子の教えと異なるが如何、と尋ね、申子が恐れ入った話。)] 齊は、桂陵、馬陵之戰での勝利で魏を覇国から転落させましたが、桂陵之戰で戦功あった将軍の田忌が、琴の名手の宰相の鄒忌の讒言で、楚への逃亡を余儀なくされる話があります。 ▲ [△政敵落とすに、噂が一番(五一):(政敵田忌を魏との戦いに仕向けた鄒忌は、戦いに勝った田忌が怪しいと占わせ、楚に逃亡させる話)] [△鏡よ鏡、門庭市場の如し(四二):(斉王に、王の過ちを指摘する者に褒美を、と諭し、その結果、戦わずして燕:趙:韓:魏を来朝させた話)] この時期の戦いは、隣接する国どうし、または挟み撃ちの戦いと言えますが、次の時期は合従連衡(連横)(がっしょうれんこう)が各国間で盛んにされた時代です。 ▲ ★最期に、この時代の戦争の勝敗、これによる領土の変遷をご覧下さい。 以下の画面にマウスを当てて、ゆっくりと左クリックを繰返し、画面を変換させて下さい。 (領土変遷:画像引用:Histodome史图馆) ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ [クリックすると、各年次の戦いの勝敗と領土の変遷をご覧になれます。] ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 以下はゲームのサイトですが、「戦国策」登場人物の説明とイラストを表示しています。 ご興味ある方は、名前部分をクリックしてみて下さい。 3.晉の三家分裂から魏の興隆と衰退 [吳起(ごき)] [孫臏(そんびん)] ▲ [龐涓(ほうけん)] [田忌(でんき)] [鄒忌(すうき)] ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ [4.縦横家の暗躍と燕楚韓の衰退] ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ [1.始めに] [「戰國策」の時代] [HOME]
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