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    4.縦横家の暗躍と燕楚韓の衰退



4.縦横家の暗躍と燕楚韓の衰退(河西之戰終結後、宜陽之戰へ)

BC330年~BC308年

縦横家の暗躍と燕楚韓の衰退

★前三三〇年~前三〇八年の戦歴
○秦(商鞅/公孫衍)●魏 :河西之戰:後期
○齊(章子)  ●秦(張儀):桑丘之戰(そうきゅう)
○秦(樗里子)   ●楚+魏(公孫衍)+趙韓+燕+義渠: 函谷關之戰1
○齊+宋   ●魏   :觀澤之戰(かんたく)
○秦(張儀)  ●巴・蜀 :秦滅巴蜀之戰
○齊(章子)  ●燕(子之):齊破燕之戰
○秦(樗里子) ▲ ●楚  :丹陽、藍田之戰(たんよう、あいでん)
○秦(甘茂)+魏  ●韓 :宜陽之戰(ぎよう)

秦では恵文王の治世が四半世紀続き、張儀登場時期と重なります。
桑丘之戰(三二三年)で、章子率いる齊が当初の劣勢を挽回し、張儀率いる秦に勝利し、張儀は魏に行き連衡策(和秦)を謀ります。

[△父欺かぬ将信ずるに足る(七〇):(斉の威王は、秦との戦いでの章子を、亡き父を欺かない態度を見て、信じられる、と思った話)]


この時期は、外交の策士として各国を渡り歩いた縦横家の活躍が目覚ましく、中でも合従を唱えた蘇秦、蘇代、連衡を唱えた張儀が有名ですが、蘇秦に先んじ合従策を唱え、張儀の連衡策に対抗した公孫衍(こうそんえん)がいます。

 蘇秦と張儀とは、鬼谷子先生の門下生ですが、両者とも秦で仕官叶わず、でも蘇秦は合従策を唱え趙で出世し、職のない張儀は蘇秦を頼って行き、蘇秦に侮辱されて発憤し、秦で職を得、出世します。▲
河西之戰で秦が魏に勝ち、桂陵、馬陵之戰で、齊が魏に勝ち、各国は自国の行く末に不安が一杯です。

洛陽出身の蘇秦は秦に連衡策を説き仕官を求めたものの、先王の商鞅で弁士に懲りた恵文王に入れられずに帰国、発憤して猛勉強し、対秦合従策へと宗旨替えしました。趙で仕官、燕の文公に存続のための趙との同盟を提言し、両者説得、同盟を実現し、更に、魏、韓、齊、楚の対秦六カ国同盟を結成します。これにより、暫しの間、戦わずに秦を抑えることが出来ました。

後に、秦が魏と齊とをけしかけて、趙を討たせ、合従に亀裂をきたし、蘇秦は、▲合従策に従った趙、燕に攻められ、燕に向かったものの、前王文公夫人との私通がばれ、齊に行き、その宰相で終りました。

蘇秦を見逃して、後悔至極の秦の恵文王は、張儀を迎え入れます。魏出身の張儀は、魏を討った戦績から、秦の宰相となりますが、魏が強国齊に接近するようになると、魏の宰相となり、存続のためには他の手段なし、と秦魏同盟を結成させた上、秦の宰相に戻りました。

職探しの昔の楚への恨みで、楚との約束を反故にし、秦楚の戦いの原因をつくりますが、齊楚同盟を壊し、楚を討って和睦をし、合従を破りました。恵文王のもとでの仕事でしたが、次の武王と不仲のため魏に逃れ、宰相で終りました。

魏出身の公孫衍(犀首)は張儀と同期で、商鞅と白起の間の時期に秦の武官を務め、河西之戰最終局面で活躍し、後に、張儀に排斥され、武将として魏に行き、▲「五国相王」策を提言するも失敗、魏の宰相として、対秦六カ国同盟を結成し、函谷關之戰1に挑むも、奮闘空しく、古巣の秦に敗れます。

 張儀は楚にも連衡を打診しています。


[△国守るは合従か、連衡か(三三):(張儀は、権勢を強め始めた秦に対し、六国が対抗する蘇秦の合従策の失敗に対し、秦と親しくする連衡策を楚王に勧めた話。)]


 齊出身で秦にいた縦横家の陳軫(ちんしん)は楚、齊に行きます。


[△靡く若妻より、罵る老妻(五五):(楚に通じていると、張儀に唆された秦王に、陳軫は例え話で、身の潔白を諭す話)]


[△他国へのお節介は命取り(七九):(楚王が、自分を騙した張儀を魏から追い出そうとした際に、陳軫から他国を干渉せず、政治力学的に行動するよう諫められた話。) ]



[△余り時間で蛇に足、不覚(七七):(陳軫は、斉王の使いとして、魏を攻め終え、斉に攻め込む昭陽に、蛇足の故事で、止めさせる話)]


 男女間の情けにも触れています。


[△寵姫褒めそやすに、害なし(二):(張儀が楚に来て楚王に会って早々、別れ際に、他国から美人を連れてくる、と言い、別れの席で会った后達ほどの美人を見たことがない、と褒めそやす話。)]


[△偽装された恐怖の入れ知恵(一):(魏王が楚王に贈った美女を可愛がる婦人が、王が女の鼻の形が嫌い、と入れ智恵し、鼻を覆わせた上、王に、匂いが嫌いなためと告げ口し、王を激怒させた話。)]



[△誰に贈るか、本命分かる(四九):(楚王の后の死後、後の后選びに困る昭魚(昭奚恤)に、知恵者が、王の心を知るために、極上品を加えた複数の首飾りを王に贈り、翌朝、極上をつけた女を后にすべし、と教えた話。) ]



[△一心にお家大事の老婆心(一八):(魏の張丑=ちょうちゅうが、魏王が秦から出奔した張儀の迎え入れを、自らの老婆心からと諭し、辞めさせた話。)]


 蘇秦は韓、楚、燕と移動します。


[△鶏口牛後、怨売り禍買う(三四):(蘇秦は、趙のために合従策を立て、韓王に、鶏頭牛後の譬えで、弱気となり秦に仕えるのではなく、趙と合従するよう説得する話。)]



[△都会暮らしは、高くつく(九〇)(楚に行った蘇秦が長らく待って楚王に会った後、直ぐ楚を立ち去るとし、楚の物価高を訴えたため、楚王が客人扱いと決めた話。)]



[△禍転じて、福となすべし(二八):(秦と姻戚を結んだ燕の文公が亡くなり易王が後を継いだ後、斉の宣王が城を取ったが、武安君=蘇秦は、斉王に、取った城を返還することで、燕、秦にも貸しが出来る、と説得した話。)]


[△忠実をもって罪を得る者(一七):(斉から戻り、讒言で燕王に不信がられた蘇秦が、自分の名声を守ることの大事さを説いた後、忠義なる故に罪せられる者を自らになぞらえた話。)]


秦は、恵文王、武王、昭襄王と続きますが、政治家の甘茂(かんぼう)が、三代に仕えました。


[△医者の扁鵲、武王を諭す(二一):(秦武王が、医者扁鵲(へんじゃく)に病状を告げた際に、側近の不安を口にしたが、専門外の意見を鵜呑みにするようでは、国を滅ぼすと諭された話。)]



[△三人言えば嘘もまことに(四一)(臣との契り、君も忘れず):(秦の武王は、韓を討つため、甘茂の言を入れ魏との同盟を結ばせたが、外野の声は聞かないとする誓いが揺らぎそうになった時、甘茂に窘められた話。)]


[△口軽との讒言は、命取り(六四):(秦の武王が、お気に入りの公孫衍(こうそんえん=犀首)と宰相にするとの内緒話を知らされ、甘茂は、その話を犀首から聴いたと上奏し、犀首を追い出した話。)]



[△目立たぬ奉仕も分かれば宝(四):(甘茂が、秦から亡命し、函谷関を出て斉に行く際に、蘇子(蘇代)に遭遇し、燭なく、でも出来る部屋掃除をした娘の話をして、蘇子の力添えを得た話。)]


函谷關之戰1(三一八年)では、秦軍は楚趙韓魏燕の五国連合軍に勝利し、合従を破ります。函谷關は、秦が東からの侵入を阻止するため設けた関所で、要害の地です。

觀澤之戰(三一七年)、齊宋は魏に勝ち、秦は秦滅巴蜀之戰(三一六年)で、地下資源豊かな蜀(四川)を手に入れます。
齊破燕之戰(三一四年)で、齊は、燕での王位禅譲時の国内混乱に乗じ、燕に勝ちます。▲
燕は長い復興期を経て、二十八年後、齊を討ちます。
ここで、蘇秦の弟の蘇代が登場しますが、王位を禅譲された子之(しし)(燕の宰相)に肩入れしています。


[△伯楽注目の馬、皆ほしい(二二):(蘇秦の弟蘇代が燕のために斉王に会う口添えを淳於髡=斉の政治家に依頼するにあたり、伯楽の故事を引き、斉王に会うことが出来た話。) ]


秦は、丹陽、藍田之戰(三一二年)で楚に勝ちますが、これに先立ち楚では、親秦(連衡策)派と親齊(合従策)派がおり、後者に屈原がいたものの、力説空し、でした。秦は、宜陽之戰(三〇八年)で魏とともに韓と戦い、韓に勝ちました。▲合従 or 連衡?集団がある限り現存する普遍的な選択肢です。

★最期に、この時代の戦争の勝敗、これによる領土の変遷をご覧下さい。 以下の画面にマウスを当てて、ゆっくりと左クリックを繰返し、画面を変換させて下さい。

(領土変遷:画像引用:Histodome史图馆)



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[クリックすると、各年次の戦いの勝敗と領土の変遷をご覧になれます。]

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以下はゲームのサイトですが、「戦国策」登場人物の説明とイラストを表示しています。

ご興味ある方は、名前部分をクリックしてみて下さい。

4.縦横家の暗躍と燕楚韓の衰退

[蘇秦(そしん)]

[張儀(ちょうぎ)]

[屈原(くつげん)]

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[5.趙・秦・齊から齊・秦二強へ]

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[1.始めに]
[「戰國策」の時代]
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