silkroad


 シルクロードの旅 時を超越したアフガニスタンの民 





1.はじめに

 シルクロードという言葉の持つ語感に魅かれてアフガニスタンを訪れたのは、今から四十二年前の一九七七年秋も始めのことだった。

この年は毛沢東死去の翌年であり、鄧小平の改革開放政策開始の前年で中国観光が望めない時期だった。
中国を西側から眺めよう、という趣旨で、パキスタン経由入国した。

 アフガニスタンは、訪問翌年、一九七八年の社会主義政権樹立後、イラン革命の余波、ソ連軍侵攻と撤退、ソ連邦崩壊、アメリカ同時多発テロ以降のアメリカ侵攻が続き、四十年余の厳しい紛争時期が経過している。

あのバーミヤンの大仏も二〇〇一年に爆破された。
医師中村哲氏の尊い命が失われたのは昨年の事である。

アフガニスタンが平和だった時の旅の感想文を、そのまま掲載させて頂く。

2.アフガニスタンへの路

 日本の一・七倍の国土の大半は乾ききった荒れ地で、一千万人の民とほぼ同数の羊が暮らしているこの国には鉄道がなく、電話機もごくまれで、十五~六世紀の部族社会がそのまま残っている。

 この国は地理的にみると、東は回廊地帯を通り中国とインドと、西は湖沼地帯を横切り「燃える秋」のイランと、南は山岳地帯を越えパキスタンと、北はアムダリアを渡ってソ連と、国境を接している。

 四方を大国に取り囲まれたこの山間の小国は、戦略的要地にあるものの、まさに辺境の地と呼ぶにふさわしい陸の孤島で、入国には便数の少ない空路をとるか、車で峠越えしなければならない。

私達は、緑が溢れるパキスタンの古都で、ガンダーラ美術の至宝を楽しんだペシャワールに別れを告げ、車を北西に走らせた。

対話するガンダーラの人物頭部像

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 郊外に出ると緑は減るが、道の両側に、誰が植えたものか、並木が涼しげな樹陰を作っており、食事を終えた羊やラクダが三々五々憩っている。
更に車を進めると緑はまれになり、かつて西洋人が「木登りする羊」と誤解した「木の葉を食べる羊」の姿が見られる。 大地には草がない。

 途中、とある村に立ち寄り休憩となったが、村の物々しさに驚かされた。
村人の皆が皆、肩に銃を担ぎ、ただならぬ様子で村の広場に集まっている。

ここは国境近くの村で、いずれの国に属することもよしとしない辺境の民族が自衛自治を行う村とのことで、 見かけは無粋でいかつい彼らではあるが、遠国からやってきた私達に、気さくで人懐っこい連中で、言葉はわからないが、笑顔で迎え、銃を貸し、写真に入ってくれた。

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2.カイバル峠越え

 村を出て旧い仏蹟を右手に丘を越えると、両側の岩山が急にせり上がり、谷間の道が険しくなる。
ここが峠の入り口で、ここ半時ほどの登りが続く。
周辺に緑はなく、崩れんばかりの砂礫の山。

街道を行きかう隊商を襲った山賊のねぐら、これを迎え撃った英国統治時代の名残の砦を見上げつつ、峠の頂きに着く。
ここが、かつてはアーリア人が越え、また後にはかのアレキサンダー大王が越えたといわれるカイバル峠である。

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 前を見渡すとこれから行く道が遥か遠方まで延びているのが見える。
振り返ると、遠くペシャワールの街がかすんでいる。
私達の通る道はあちこちで旧道と交差しており、眼を凝らすと、永年の年月を経て踏み固められてきたか、砂利道が白く長く連なって見える。これが、かのシルクロードである。

目前の谷間からは数十頭のロバが荷を背負い、ゆっくりと登ってくる。
杖を着き、ターバンを巻いた牧童が群れを追う。
重い荷をこらえひたすら歩き続けるロバの大きな瞳、可憐そのものである。

 更に国境に近づくにつれ、どこから湧いてきたのかと思う位、人の往来が急に活発になっていると気づく。
皆、背中に乾物、木の実など入れた大きな袋を背負い、歩いて国境を渡る。
彼らにとって国境など無いも同然、自由に行き来できるのである。
 いまだ浅き秋、といえども日が傾き始めると涼しさが増してくる。

カーブル川を遡り車が進むにつれ、駱駝やロバの群れと出会うことが多い。
秋は遊牧民移動の季節で、夏の間、暑いパキスタンを避けてこの地にやって来た遊牧民は秋には、暖かいパキスタンへと降りて行くのである。

河原には、白や黒のテントを張って、駱駝やロバに生え残った草を食べさせながら夏の余韻を懐かしがっている連中もいる。
黒テントに住む遊牧民の先祖は遠くヨーロッパまで遠征し、ロマになったといわれ、いまだに逢えば、言葉が通じるそうである。

トイレは車の右は男性、左は女性と野趣豊かに鳥打ち、花摘みする。
 さらに進むこと数時間後、夕暮れ近く、車はアフガニスタンの首都であるカーブルに辿り着いた。

3.バーミヤンの大仏

 長旅の疲れで良く眠れた今日は、カーブルから二三四キロ先にある摩崖仏で有名なバーミヤンに向う。
道路は軍用か、当初は舗装されて快適である。

チャリカールから左の砂利の脇道に入り、チャイハナで休憩し、シーバル峠を越えるとバーミヤンの谷に着く。
ポプラの並木の右側にバーミヤンの石窟が見える。
石窟の見学は明日である。

宿泊は、国立のバーミヤンホテル。
 翌朝、バーミヤンの大仏と対面する。

大仏の身長は、東は三八米、西は五五米と巨大である。
完全に残っていれば、と思うが、残念なことに顔面は削がされ、腕はなく、脚も欠損し、穴だらけ、辛うじて波打つ衣文の美しさが、往時の姿を彷彿とさせている。

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大仏は六世紀前半の制作と思われ、顔面は、当時、金に次いで高価な黄銅で覆われていたが、仏教の衰えと、偶像崇拝を嫌うイスラム教徒、侵略者達により略奪された、と言われている。

大仏の横には上に上る階段があり、天蓋には太陽神、飛天等の壁画が描かれ、「文明の十字路」と呼ぶにふさわしく、ペルシャ、インド、中央アジアの影響が顕著に見える。

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 小高い丘には、黒テントがあり、遊牧民が暮らしている。
緩やかな時が流れているバーミヤンの谷。
 バーミヤンでゆっくり過ごした後、カーブルへの復路をとった。

4.カーブルの一日

 カーブルはシルクロードの隊商宿を中心にできた旧い街である。
 カーブルの朝は、鎌月と明けの明星がまだ輝いている午前五時のコーランの詠唱とともに始まった。

私達も眠い眼をこすりつつ河沿いにある朝市に向かう。
チャパンという縦縞模様のドテラを着込んで、ターバンを巻いた姿の男達で沸き返っている。

収穫の秋の真っ盛りで、ナス、ウリ、ブドウ、メロン、ニンジン、ザクロ、など野菜、果物が山積みされ、店頭には羊の肉がいくつも吊るされ、壺焼きパンが次々に焼き上げられ、並べられる。

人だかりにひかれてみると、湯気の立った朝飯を食わせる一膳飯屋である。
パンにカレーのスープをかけたもの、大鍋を覗き込むと、羊の頭が二~三個転がっていた。

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 市場は売り手と買い手との真剣勝負の場である。
品物に定価などなく、売り手は値段を吹っ掛ける一方で、買い手は値切るという値決め交渉が至る所で声高に行われ、市場は活況を呈しつつ、さながら「ペルシャの市場」の感がある。

 市場をふらふらと歩き回り、気がつくと、日はかなり高く昇っていた。
   日中は静かな街にも、日が暮れかかると、再び賑わいが戻ってくる。

街に灯がともる頃には、街は人で溢れ返るが、程なく人は去り店は閉まり、カーブルに夜のとばりがおりる。
街の角ごとには若い兵士が立ち、人影もまばらとなるなか、唯一の溜り場は映画館、喫茶店程度で、物は試し、と映画館に入る。

そこは男ばかりの満員御礼で、上映されたのはイランの映画、勧善懲悪の単純明快な物語である。
主人公の女探偵が悪玉の巨漢をなん人も手玉にとり大活躍するというもので、大立ち回りになると、客席は沸きに沸く。

映画館を出ると、次はどこのものともつかぬ音楽に誘われ喫茶店に入る。
 そこにやはり男だけの人だかりがあり、その向こうに舞台がある。
客はお茶を飲みつつ歌を聴き踊りを見る。
いわゆる伎楽の類である。

琴鼓、横笛、琵琶の親玉のような楽器が、西洋音楽とも東洋音楽ともつかぬ調べを奏でて、それに合わせてロマの女が踊る。
踊りのテンポが速くなり女が回転するにつれ、ロングスカートが十センチ位持ち上がる程度の、お堅い踊りである。
とはいえ、イスラム教の教えが厳しく女性は人前では顔を出さないというお国柄、この踊りはかなり好評であった。

 夜も更け店がはね、異国の音曲の興奮も醒めやらぬ頃、店の前で押したか押さないが元で客同士の喧嘩が始まった。
突き飛ばされた客は、やにわに腰に差した短剣を抜き、相手に切りかかっていった。
まわりの連中が取り押さえ大事に至らなかったがかなり驚かされた。

 乾いた荒れ地でコーランの教えに従い、数世紀前の生活をそのまま続けている遊牧の民。

 異なった風土が異なった宗教を生み、異なった宗教が異なった民を生む。

同じ人間でも、考え方や生き方が異なる異国の民を見るにつけ、彼らを理解することは容易でなく、不断の努力が必要であることを痛感した旅だった。

パキスタンのラワルピンディ発の帰路、トランジットで北京空港で中国の地につま先で触れたのが、中国と最初で最後の出会いであった。今度こそ訪問したいと思っている。

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「自分に打ち込めるものがある内は、まだまだ青春期。」

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