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     7.秦による一強国時代の始まり



7.秦による一強国時代の始まり(鄢郢之戰から鄗代之戰へ)

BC278年~BC251年

秦による一強国時代の始まり

 この時期前半は、秦の宰相魏冄(ぎぜん)、范睢(はんしょ)の政策と白起(はくき)の活躍、次には自害の話となります。後半は、戦国四君の話、その他となります。

○秦(白起) ●楚  :鄢郢之戰(えんえい)
○秦(白起) ●魏+趙:華陽之戰(かよう)
○趙    ●秦  :閼與之戰(えんよ)
○秦(白起) ●韓  :陘城之戰(けいじょう)▲
○秦(白起) ●趙  :長平之戰(ちょうへい)
 白起は、魏冄に登用されました。魏冄は、恵文王・武王・昭襄王の三王に仕えた政治家、武将でした。
 他方、范睢は自分の意見が採用されなければ、打ち首も厭わないと、昭襄王に進言します。外交面での献策は、兵法三十六計でいう「遠きと交わり、近きを攻める」、所謂「遠交近攻」策です。遠い齊や楚と同盟し、近い韓、魏、趙を攻める策で昭襄王が採用しました。


[△遠くと交わり近く攻める(三二)(名犬に手負いの兎を追わせる)(賊に刃物、盗人に追い銭の愚):(秦の昭襄王が、斉に対し取っていた戦略について、范睢(はんしょ)は、合従連横(合従連衡)ではなく、遠交近攻策を取るよう進言した話。)]


 白起は期待に応えます。伊闕(いけつ)之戰で魏・韓に(二九三年)、鄢郢之戰(二七八年)で楚に勝利し、郢を落とし陳に遷都させます。華陽之戰(二七三年)で魏・趙・韓に勝ち、閼與之戰(二六九年)で趙に敗北したものの陘城之戰(二六四年)で、韓に勝利します。これら戦いで四十万以上を斬首しています。更に范睢は、魏冄などの一族が王に勝る権力、財力を有している、と昭襄王に述べ、彼らを追放します。

[△王の権力の座は三分の一(六六)(臣下強くなれば、主君危うし)▲:(范睢(応侯)は、秦の昭襄王に、武将達がその軍功を良いことに勢力をつけており、王は三分の一の権力の座にいるのみ、と戒める話)]


また范睢は、外交面でも、昭襄王に韓・趙への対応を注進し、合従策を説く策士達を金で分裂させます。

[△悪者作り、責めるが良策(六〇):(范睢が、韓を攻めあぐんでいる昭王に、君臣一体の魏での秦軍の難局を例に、韓攻めは、張儀が韓にいることを口実とせよ、と進言する話)]


[△似て非なるもの見極めよ(八六):(范睢は、玉の素材と同じ呼称ハクの鼠の干物を買わなかった鄭の商人を例とし、父武霊王を幽閉した趙の平原君を貴ぶ昭王を戒める話。)]



[△合従も、所詮は金目当て(六三):(范睢は、天下の策士達が趙に集まり合従して秦を攻めようとする目的は、金目当てだ、と昭王に説き、金をちらつかせ策士達を分裂された話) ]


 白起は長平之戰(二六〇年)で兵法三十六計でいう「関門捉賊」(所謂「雪隠詰め」)をし、趙を破りますが、四十万の捕虜の兵糧がなく、やむなく全員を生き埋めにします。范雎は軍功ある白起に脅威を感じ、邯鄲陥落を計る白起を押し止めて、趙と和睦しました。▲

 趙は隣国の魏と緊張関係にあり、戦いに敗れた趙王は、合従か、連衡かを思案します。三回の謁見で孝成王の宰相に抜擢された虞卿(ぐけい)が手腕を見せます。


[△損を求めて利を辞退する(九四):(魏王が、趙王との合従するように、趙の平原君を通じて働きかけたが上手く行かない。そこで、虞卿は、弱い魏が強い趙を頼ってきた、として趙王を説得した話。) ]


[△足元を見られぬ用心肝心(五六):(虞卿=趙の宰相の趙王への進言で、魏と交換条件で殺されそうになった魏に囚われの前の宰相笵座が、約束が果されなければ、悩みの種となると、後任の信陵君に告げ、難を逃れる話。)]



[△趙王、虞卿の合従策を採る(百)(同じ事、誰が言うかで大違い):(長平の戦いで秦に大敗に帰した趙王が、秦からやってきた縦横家楼緩の連衡策を採るか、虞卿の合従策を採るかを迷う場面で、最終的に合従策を採る経緯の話。) ]


趙王は民思い、合従に苦慮します。 合従前の趙は、齊に人質を送り、連携に努めていましたが、秦から圧力を受け、魏の太子から背後の不穏な動きを注意されていました。


[△子のため思い、子人質に(一〇):(秦の攻撃に、斉に救援を求めたが、息子長安君を人質に求められ拒む母親に、老臣の触龍が、言葉巧みに説得する話。) ]


[△民草は本にして、君主は末(七):(斉王の使者が趙の威后を訪れた際に、王ではなく民草の安否を問うた話)]



[△他人事、我が事に擬える(五七):(巣を覆し卵破れば鳳凰飛翔せず):(斉・趙を制圧した秦が言う、趙王の兄弟を殺せとの言いがかりに、趙の臣諒毅は、秦王に自分の兄弟を殺されたらどう思うかを諭し、難を逃れた話。)]



[△贅沢に招かざる客、死が(七八):(魏の公子牟が別れ際に秦の応侯=范雎に話した身分が高ければ死も近いとの話を兄が弟に話す話。)]


[△竈神の夢、不穏の予知夢(八〇):(魏の公子牟が、趙王に対し、衛の霊公の故事=王に敢えて太陽の神ではなく、竈の神の夢を見た、と進言し、王の背後の不穏な動きに気遣うよう諭した話。)]


 合従前の魏は、華陽の敗戦から、秦に追随しようとする動きがあって、現に、齊・楚の同盟軍が魏を攻めようとした際には、秦に援軍を求めました。他方で趙を攻めようとの動きもあり、方策が揺れていました。


[△負けても危険に近づかず(八二):(華の地で秦に負けたため、魏王が秦に入朝しようとした際に、周訢が、許綰のような者が首を懸けても、鼠の首だ、と諭し、底知れぬ沼の秦行きを止めた話。)]



[△飛んで火に入る、夏の虫(八三)(なお薪を抱きて火を救う如し)(名、対面より実利を選ぶべし):(華の地で秦に負けたため、魏王が家臣の段干子を秦に遣わし土地割譲を申し出させたが、孫臣がそれを薪を背負って火を救いに行くようなもの、と諫めた話。) ]


[△老臣の声、秦王を動かす(一九):(斉・楚の同盟軍が魏に攻め込もうとした際に、魏の老臣唐且=とうしょが、同盟国秦に赴き、脅威は魏のみでなく、秦にも及ぶと説得し、援軍を得た話。) ]



[△問う、今すべきは何事ぞ(八四):(轅を北にして楚に行くが如し): (邯鄲に攻め入ろうとする魏王に向い、臣下の季梁は、王は力に奢って、楚に行くため南に行くようなものだ、と諫めた話。) ]


 合従前の楚は、太子時代の先代頃襄王が齊に、同じく息子考烈王が秦に人質に行くなど、他国との対応に苦慮しており、秦に敗れ、陳への遷都を余儀なくされた鄢郢之戰後の国勢立て直しに努めていました。


[△異論組み合わせ妙案作る(六一):(楚の襄王は太子時代に斉の人質だったが、帰国の条件に領土割譲を求められ、帰国後、対応を三人の部下に聞き、三様の答えを得たが、太傳(たいふ)慎子は、その総てをすることを勧め、なんと成功を収めた話。) ]



[△今そこにある危機忘れず(四四):(今なら間に合う、すぐやろう)(もう駄目でなく、まだ大丈夫):(楚の襄王に暇を告げた莊辛は、その言を入れず窮地に立つ王に求められ帰国し、まだ遅くはなく、何をすべきかを懇々と話し、楚王に理解させ、失地回復を果した話。)]


趙・魏・楚の合従が成立しました。連合軍は将軍達の協力で動きます。

[△手負いの将、将に足らず(七四):▲(諸侯が秦に備え合従した際に、趙の将軍魏加が、楚の春申君がかつて秦に敗れた臨武君を再任したい意向を知り、落雁の譬えで諫める話。)]


○趙(平原君)魏(信陵君)+楚(春申君)●秦  :邯鄲之戰(かんたん)
○秦(呂不韋) ●西周 :秦滅西周之戰
○趙     ●燕  :鄗代之戰(こうたい)

 秦は、邯鄲之戰(二五七年)で趙・魏・楚の連合軍に敗北します。 趙の平原君(趙勝)、魏の信陵君(魏無忌)、楚の春申君(黄歇)が各軍を率い、協力して秦に立ち向かい、勝利を治めました。それに先立ち形勢不利の状況で、昭襄王は范雎を通し白起に出撃を命じますが、白起は断わります。また、敗戦の結果に口出ししたと昭襄王に咎められて、自害し、その際に、捕虜生き埋めを悔いました。

[△白起なかりせば、我趙を(四〇):▲(前言に囚われずに、臨機応変に):(秦の昭王が再度趙を討とうとした際に、白起将軍(武安君)は、王の使者のとしてきた宰相の范睢に、その時でない、と告げ、勝ちを急ぐ王を諫めた話。)]


 趙の平原君は、名を趙勝といい、武霊王の子、恵文王の弟にあたり、兄と甥孝成王を支えた政治家です。
魏の信陵君は安釐王の弟で、名を魏無忌といい兄を支えました。
 楚の春申君は、黄歇(こうあつ)という名ですが、秦との和議交渉で人質となった太子の侍従となり、後日、考烈王として擁立しました。
 平原君、信陵君は戦勝を謙虚に受け止めるようにと諫められます。


[△功なく賞受くるは、不芳(三八):(平原君が公孫竜の言を入れて戦功を辞退した話。)]



[△施した恩徳、忘れるべし(三七):(魏の安釐王の弟の信陵君は、趙を救うため邯鄲の戦いで秦を破ったが、唐且に、施した恩徳は忘れるべき、と諭された話。)]


言葉や態度は、人に影響を与え、人の本音が見え隠れします。二人は、忠告を素直に受け入れました。

でも屁理屈雄弁で命拾いすることもあります。お世辞も悪い気はしません。殺し文句は泣かせます。豚も煽てりゃです。君主は目の前の臣下を黙らせられますが、民草の口封じは出来ません。君主は人の本質を見極め、これはと思った人の意見は採り入れ、外野の声に耳貸さず断行せよということです。


[△不死薬のはずが死薬の妙(九一):(荊王(楚の王)に献じられた不死の薬を食べた者が、怒った王に殺されそうになった際に、それでは不死の薬が死の薬となる、と説明して一命を取り留める話。) ]



[△口先の機転で殉死を免れる(九):(秦の宣太后=昭襄王の母后が死に瀕する際に、寵愛している魏醜夫に殉死を命じたが、来世で、先王達の目があり、姦通出来ないと言って、思いとどまらせた話。)]



[△寵臣の殺し涙に王落ちる(一五):(極めれば頂上の先は奈落のみ):(魏王が寵臣龍陽君と釣りに興じている際に、龍陽君が大きな魚が釣れる度に涙するので、その理由を聞くと、王に自分より好きな寵臣が出来ると悲しいと訴え、王が益々愛しく思うようになった話。) ]


[△年経て容色落ち、智増す(五三):(建信君が或る人の助言を入れ、𦱫に重要な国務を任せるよう国王に進言して、その失敗を利として追い出しを実現した話。)]



[△直ぐ人物を見極める才能(三六):(汗明が春申君に謁見した際に、ほんの一時で互いを理解出来たことは、堯舜にも勝ると褒めそやして、賓客として頻繁に話す仲となった話。)]



[△人の口に戸は立てられぬ(九七):(犬に吠えるなといっても無理):(白珪が新城君に、臣下の私は王の面前で君のことを言うのを自粛出来るが、人が君の面前で臣下の私のことを言うのは止められない、と人の口の恐ろしさを伝える話。) ]


[△鵲と烏とは、名実異なる(六八):(史疾が韓の為に楚に使いに行き、王から専門分野を聞かれた時、列子圉寇の学を学んだとし、人の本質を見極めることの大切さを説いた話。)]



[△千里馬も長手綱で走れず(九八):(千慮の一失で万事休すと化す):(段干越人=秦国の賢士が、楚の封じられた秦の新城君に、一日千里行く馬でも、一つでも欠陥があると走らずとして、外野の声を断つように進言した話。)]


 秦滅西周之戰(二五五年)では、呂不韋(りょふい)率いる秦軍は、西周を滅ぼします。また鄗代之戰(二五一年)で趙は燕に勝ちます。

★最期に、この時代の戦争の勝敗、これによる領土の変遷をご覧下さい。 以下の画面にマウスを当てて、ゆっくりと左クリックを繰返し、画面を変換させて下さい。

(領土変遷:画像引用:Histodome史图馆)



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[クリックすると、各年次の戦いの勝敗と領土の変遷をご覧になれます。]

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以下はゲームのサイトですが、「戦国策」登場人物の説明とイラストを表示しています。

ご興味ある方は、名前部分をクリックしてみて下さい。

7.秦による一強国時代の始まり

[趙勝(平原君)(ちょうしょう)]

[魏無忌(信陵君)(ぎむき)]

[黄歇(春申君)(こうあつ)]

[呂不韋(りょふい)]

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[8.秦の他国併呑と中国統一達成]

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[1.始めに]
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