8.秦の他国併呑と中国統一達成 |
8.秦の他国併呑と中国統一達成(秦滅東周之戰から秦滅齊之戰) BC249年~BC221年 ★前二四九年~前二二一年の戦歴 ○秦(呂不韋)●東周 :秦滅東周之戰 ○魏(信陵君)●秦 :河外之戰(かがい) ○趙(李牧) ●匈奴 :趙破匈奴之戰 ○秦+齊 ●楚(春申君)+魏+趙韓+燕:函谷關之戰3 ○趙(李牧) ●秦 :肥之戰(ひ) ○趙(李牧) ●秦 :番吾之戰(ばんご) ▲ 秦滅東周之戰(二四九年)では呂不韋の秦軍は東周を滅ぼします。呂不韋は商人で、趙で人質の身の秦の太子をたまたま街頭で見出して、「これ奇貨なり、居くべし。」と、後に荘襄王に擁立し、また自分の愛人趙姫を荘襄王夫人とし、後の始皇帝となる趙政が生まれました。 [△主君擁立建国の儲け幾許(二四):(趙の商人呂不韋は、秦の人質の異人の公子を見かけ、「これ奇貨なり。居くべし」と、一国の主君を守り立て大儲けしようと、王后に取り入り、荘襄王とし、自ら宰相となった話。) ] [△商いは値より時機を重視(二五):(恩ある振る舞いをしない文信侯=呂不韋に腹を立てた建信君に、希写が、商人の時機を見る術を学ぶよう諭す話。)] 魏は信陵君のもと、河外之戰で秦に一矢を報いました(二四七年)。 [△父子の情け、国憂う想い(一二):(魏の信陵君より我が子が住む国を攻めさせるため仕官させるのを知った縮高は、自分の父子の情が分かる安陵王の言葉に、災いが安陵に及ばないように自死した話。)] ▲ 荘襄王を継いだ趙政は、母太后、呂不韋、嫪毐(ろうあい)の事件を経過し、頓弱に発破を掛けられ、連衡を強化し、齊を取り込みます。 [△孝の名なく、実なきは王(二三):(秦王に合従連衡(連横)策を取らせ、自らも各国を遊説し功があった頓弱が、頓弱と初対面した時に、王が位負けしている、とカツを入れた話。)] 趙の李牧は、趙破匈奴之戰で匈奴を撃退し、健在ぶりを示しました。 函谷關之戰3(二四一年)では、楚の春申君らのもと、五国連合軍で、秦・齊同盟軍と戦い敗れます。齊は秦の遠交近攻策で、秦と同盟関係を維持し、侵攻を免れました。 ▲ [△良妻賢母、秦の玉環を解く(八):(秦の昭襄王が、斉の襄王の妻の君王后に玉を組んだ知恵の環を送ったが、その環を砕いて解いた話。)] 趙の李牧は肥之戰(二三三年)、番吾之戰(二三二年)で秦に勝ちますが、秦は李牧を誅殺させます。 ○秦 ●韓 :秦滅韓之戰 ○秦 ●魏 :秦滅魏之戰 ○秦 ●楚 :秦滅楚之戰 ○秦 ●趙 :秦滅趙之戰▲ ○秦 ●燕 :秦滅燕之戰 ○秦 ●齊 :秦滅齊之戰 秦は、別表通り、他国を個別撃破していきます。 韓・魏を滅亡させた後、趙政の強引な領土交換打診に屈せず、抵抗した使者唐且(とうしょ)の逸話で終わります。 [△布衣の怒りに、秦王謝罪(一三):(白虹日貫き、青鷹屋根を撃つ):(秦王の領土交換の提案を断った安陵君(魏昭王の弟)の使者唐且(とうしょ)(または唐雎)は、怒れる天子の脅しに、剣を抜き、身を挺して怒りを示し、王にその否を認めさせた話。)] ★最期に、この時代の戦争の勝敗、これによる領土の変遷をご覧下さい。 以下の画面にマウスを当てて、ゆっくりと左クリックを繰返し、画面を変換させて下さい。 ▲ (領土変遷:画像引用:Histodome史图馆) ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ [クリックすると、各年次の戦いの勝敗と領土の変遷をご覧になれます。] ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 以下はゲームのサイトですが、「戦国策」登場人物の説明とイラストを表示しています。 ご興味ある方は、名前部分をクリックしてみて下さい。 8.秦の他国併呑と中国統一達成 [李牧(りぼく)] ▲ [嬴政(えいせい)=秦の始皇帝] ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ [9.「戦国策」資料編] ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ [1.始めに] [「戰國策」の時代] [HOME] |