5.趙・秦・齊から齊・秦二強へ |
5.趙・秦・齊から齊・秦二強へ(垂沙之戰から伊闕之戰へ) BC301年~BC293年 ★前三〇一年~前二九三年の戦歴 ○齊(章子)+魏+韓+秦 ●楚 :垂沙之戰(すいさ) ○趙(武靈王)燕 ●中山:趙滅中山之戰 ○齊(章子/孟嘗君)+魏韓:●秦 :函谷關之戰2 ○秦(白起) ●魏+韓+東周:伊闕之戰(いけつ) 齊はこの時期、頂点を極めます。齊は垂沙之戰(三〇一年)で楚に勝ち、函谷關之戰2(二九六年)で秦にも勝利します。▲章子、孟嘗君(戦国四君)が戦果を上げました。 趙の武霊王は、古い伝統を破り、北方民族の胡服騎射を採用した上で、趙滅中山之戰(二九六年)で、中山を滅亡させました。 また秦は伊闕之戰(二九三年)で名将白起のもとで、魏・韓、宗主国東周に勝利し、白起の活躍が始まります。 中山に、接待で羊羹を出し忘れて楚に攻め込まれた話があります。 [△食べ物の恨みは恐ろしい(四七):(中山君の宴会に呼ばれた名士司馬子期に手違いから羊羹が渡らず、怒った子期が楚王を動かし、中山を討たせたことなど、食べ物の恨み、功徳を伝える話。)] [△中山王、避難のため嫁取る(三):(司馬憙は、中山王の后の座を争う陰姫を、強国趙の王に、美人であると吹き込み、趙王が所望するに至り、中山王は、難を逃れる道として陰姫を王妃とした話。)] [△馬の心は、書では知れず(九九)(愚者成功知らず賢者兆し知る)(自信なきこと、功、名声なし):(趙の武霊王は、斉、中山を征服するため、従来の伝統を捨て、胡服騎射とするよう周囲に粘り強く説得した話。)] [△太子守り役、遵守六箇条(二〇):(武霊王が周紹を太子の教育者に選ぼうとした際に、周紹は固辞したものの王の重ねての要望に、胡服を授かり、任を受けた話。)] [△こけしは木より泥が強し(九二)(蘇秦曰:趙、累卵より危うし):(蘇秦は、どろのこけしが木のこけしに勝つ逸話で、自分を売り込んだ話)] [△西周に作物偽り東周救う(二六):(蘇秦は、稲作りの水を西周が流さないで困っている東周のために、西周へ行き、東周が麦を作っていると偽り、水を流して駄目にするように勧め、水の調節で東周を弱らせるように説いた話。)] [△困窮でも貴顕の人を救え(六九):(杜赫は、周は小国ゆえ、少ない資源を無駄にしないよう、現在困窮しているが、将来は貴顕の人になる者に恩恵を与えるべきと、景翠を推す話。)] 辛うじて存続している東周、西周を尻目に、齊の湣(びん)王、秦の昭襄王が東帝、西帝と名乗った時期(前二八八年)がありました。公:侯~王~帝と呼び名の変遷は、自称にせよ、他称にせよ、為政者の意識に関係があります。齊と秦の二強が頂点に立った時代でした。 ▲ ★最期に、この時代の戦争の勝敗、これによる領土の変遷をご覧下さい。 以下の画面にマウスを当てて、ゆっくりと左クリックを繰返し、画面を変換させて下さい。 (領土変遷:画像引用:Histodome史图馆) ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ [クリックすると、各年次の戦いの勝敗と領土の変遷をご覧になれます。] ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 以下はゲームのサイトですが、「戦国策」登場人物の説明とイラストを表示しています。 ご興味ある方は、名前部分をクリックしてみて下さい。 5.趙・秦・齊から齊・秦二強へ [白起(はくき) ] ▲ ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ [6.秦の進撃、復活燕と齊の攻防] ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ [1.始めに] [「戰國策」の時代] [HOME] |