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     08.彝族の「指路経」



第八節:彝族の「指路経」
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目次
01.彝族の《指路經》の出典
02.Nosu, Shengzha の《指路經》の指す路
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01.彝族の《指路經》の出典(番号は整理番号)

016.★《指路經》は、彝語支民族の間で広く行き渡っており、彝語で記された 《指路經》は、現在まで伝えられたものとして、最も数が多いです。
1978年2月に、中央民族学院彝族歴史文献編訳譯室、及び八二級彝族歴史文献大専班編訳の 《彝族六祖遷徙典籍選編》が編集され、合計十六部の彝族 《指路經》が集められました。★
017.★吉寧哈、嶺富祥が主に編集した《彝文 (指路經)譯集》は、西南の十八の彝族家族の《指路經》が結実しています。
国家図書館は、37部の彝文《指路經》があり、これら西南各地の《指路經》とその写本の中には、年号が記されているものが五つあります。
嘉慶二十年(1815),道光十四年(1834)、 十五年 (1835)、二十四年 (1844)和光緒十年 (1884)とあります。
これらは、彝文《指路經》の中でも珍本の部類です。★

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02.Nosu, Shengzha の《指路經》の指す路

西南民族の指路経は幾つもありますが、そのうち、北部彝族の支族=Nosu, Shengzhaのものを見て行きます。
( 詳しくは、05.西南民族の「指路経」の「06彝族」をご参照下さい。 なお、括弧内の番号は参考資料の通番です。)
Nosu, Shengzha= 圣乍= 聖乍(聖なる) (1,323,000人)= Nuosu(言語)= 諾蘇
Shengzha= 聖乍とは、彼らが「乍」一族の末裔であることを示しています。
彝族の古代史における部族の首領で、洪水伝説のノアにも相当すると言われている阿普篤慕(彝族の始祖)=Ā pǔ dǔ mù の六人の子供「六祖」の一人=乍部慕雅且が彼らの先祖です。
★ 《指路經》は、祖先の魂が帰る家への経路を示し、あの方船の話のノアと六人の先祖から、枝分かれした支系により、各地に広まっていきました。(047)★

★ もう一つの共通の先祖代々の地、それは西南彝族の“茲茲普烏”です。あの方船の話のノア が主人公の“六祖分支=六つの祖先の枝分かれ”に記された東川(現在の雲南省曲靖市會澤県境)樂尼白の記憶です。(139)★
★ 西南彝族の葬儀では、畢摩(祭司)が《指路經》を念じて、故人の魂を祖先の方向へ導き、故人が神霊馬に跨がって祖先の出生地に戻れるようにします。これは、いわゆる“人死要教魂,教魂回祖籍 ”、つまり、「人は魂を教わるために死に、その魂は、祖先の家に帰る」のです。(018)★
★ 《指路經》は、経路に沿って自然の景色、地形、大地の様相を描いており、これは魂が祖先の移住の道程を示すもので、無数の山々、渡し場、断崖、峠、山の峰を経由しており、その指し示す標識一つ一つを辿ることで、魂は、祖先発祥の地に送り届けられるのです。(019)★
★ 乍氏は、彝族六祖の中の乍支族で、その歴史の中で、雲南省の北西部、福建省の南部、金沙江の南部と北部の海岸、そして雲南省西部の渤海海域へと発展して行きました。“乍氏代設纜索=乍氏の世代を繋ぐケーブル”から川を渡るまで、私達は川を渡る南西雲南から貴州高原へと続く先祖代々のケーブルの長い歴史を知ることが出来ます。(061)★

★ 貴州省大方県の彝族の《指路經》は、次のように書かれています。翁靡耿杰に着くと、聖なる彝族の聖乍支族には世代を繋ぐ縄があり、両岸を横切って跨がる縄を伝って渡れば、恐れることはありません。
彝族の聖乍支族の祖先、これは遠い先祖の一つです。(060)★
★彝族《指路經》で言う祖先の地は“翁靡”です。彝語で “翁靡”には、「中央、中国」という意味があり、彝族の祖先の居住地が、天と地の中心にあることを反映しています。貴州省赫章の彝族の 《指路經》には、書かれています。「翁靡は風光明媚であり、翁靡はとても静かな地」と。(077)★
★ 四川省彝族の《指路書》で、“翁靡”は、雲南省の 昭通、曲靖に、貴州省の威寧などに相当します。楚雄、紅河などの地の 《指路書》では、“翁靡”は、雲南省の 昭通、貴州省の威寧一帯となります。★(080)
★ 西南部の彝族(イ族)、苗族(ミャオ族)、普米族(プミ族)の送魂の路は、故人の魂が東へ帰還するように導きます。これから、西南少数民族の 《指路經》の祖先の帰る経路は、特定の文化的要素の共通点を持っており、南西各民族の移住によって引き起こされるものであることがわかります。★(089)

★ 彝族の送魂の経路の殆どは、金沙江を越えて水頭地区へと、南から北に向かいます。彝族の人々は、“北方”を“水頭”と、“南方”を“水尾”と呼んでいます。雲南省紅河県寶華鄉、甲寅鄉に住む哈尼族(ハニ族) の《指路經》には、次のように書かれています。「捧げ物に、最高の穀物を奉じなさい。魂が南に行かないように。」(102)★
★★★ 彝族の祖先は、二度にわたり大規模に涼山に入りました。★★★
第一次は春秋時代で、彝語を話す支族の犛牛羌族(犛牛羌(ヤク)を飼う古代羌族)で、雅礱江を南下し、涼山州南部、楚雄州北部および東川市一帯に移住して来ました。
第二次は、晉宋の時代で、雲南省北東部の昭通市周辺に住んでいた恆氏(六祖の一派)古侯=ホウ族(耿恆)、尼氏(糯氏=同じく六祖の一派)曲涅(クネ族)の部族が金沙江を西に渡り、涼山山腹に入りました。(114)★

★ 廣西彝族に広まっている創世の古代の歌《銅鼓歌》は、彝族の祖先の生活を語っています。「我々彝族の祖先は、崑崙にあった。丈高く巨大な崑崙山、緑の芝生は柔らかく、祖先は牛馬を養い、遊牧の時を過ごし、古代の崑崙山では、到る処に家畜の群れがいた。」と。(126)★
★ 彝族の出自は、古代の羌族であり、とする説があり、西北崑崙山一帶の地こそ、羌族発祥の地です。四川省凉山彝族自治州美姑県の《指路經》は、送魂の最終地点を説いています。「“勒波依體”に着きます、ここは祖先の地、ここに送ります。 
“勒波依體”が何か、といえば、ここは良い場所です。」(127)★

★《指路經》に従い大涼山の彝族が祖地へ帰る路は下図の通りです。★

★馬牧河は古蜀国の都でした。
秦の恵文王は、司馬錯と張儀の双方から意見を出させ、司馬錯の蜀国攻めを採用し、紀元前316年、巴蜀の戦いで、農地、鉱物資源に恵まれた四川の地を手に入れることが出来て、このことが秦国の発展、統一国家建国の礎となりました。

★都江堰(とこうえん)=巴蜀の戦いの50年後の紀元前256年~251年に、秦の蜀郡郡守李冰が、洪水に悩む人々を救うため、原形となる堰を作りました。
この堰は、岷江の要部分に設けられており、岷江の水を左岸(東側)一帯へと分水しています。都江堰は現在でも 5,300平方キロ(関東平野の3割)に及ぶ範囲の農地の灌漑に活用されており、それまで洪水、水不足に苦しんでいた成都平原は、水田や桑畑などが急速に広がり、水運も便利になり、「天府之国」と謳われる大穀倉地帯となりました。

近年、馬牧河付近の三星堆遺跡で、本格的な発掘調査が行われた結果、長江文明に属する古蜀文化の遺跡で、約5000年前~約3000年前頃のものであることが判明しました。

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★参考資料[○○]の部分をクリックして御覧下さい。
[ 司馬遼太郎 街道をゆく ]

★ある疑問が湧きました。「もう一つの共通の先祖代々の地、それは西南彝族の“茲茲普烏”です。あの方船の話のノア が主人公の“六祖分支=六つの祖先の枝分かれ”に記された東川(現在の雲南省曲靖市會澤県境)樂尼白の記憶です。」という文章が出てきます。これだけでなく、西南民族の氏名、地名などに「烏」の文字がよく出てきます。何故でしょうか?

日本神話でも、”八咫烏(やたのからす)(三本足の烏)”があり、日本サッカー協会のシンボルマークとなっていますし、中国神話でも”三足烏”は太陽に棲む、とされています。

彝族出身の学者=詩人の普驰达岭氏は、論文「彝族の『三』の数と『三色』定案法法」で、彝族が「三」の数字が好きであり、「黒、白、花」を「松、竹、梅」のように使っている、と書いています。

「烏」と「三」の組み合わせ、「漆黒の烏」になにか不思議な力を感じる面白いと思います。

★今回、中華民族の悠久の歴史に触れることが出来ました。

ご静聴、有難うございました。

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★参考資料[○○]の部分をクリックして御覧下さい。

[  戰國策 秦策一 《司馬錯與張儀爭論於秦惠王前》 ]

[ 世界未解之謎全紀錄(五)三星堆之謎 ]

★[○○]の部分をクリックし、次の画面にお進み下さい。

[ 09. 資料編 ]

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