第六章:大西洋三角貿易~イギリスの植民地化(砂糖の時代)
(1)ソンガイ帝国滅亡以降
各帝国時代において、サハラ交易は活発に行われましたが、その交易対象には
奴隷も入っていました。 ガーナ帝国、マリ帝国ではもちろん、ソンガイ帝国でも
奴隷交易は、サハラ越えで行われていました。
現在のナイジェリアに相当する地域で、1472年、ポルトガル人がラゴスを
建設して以降、17~19世紀を通じて、ポルトガル人、イギリス人を
主体とする西欧の貿易商人たちによる大西洋奴隷貿易が行われました。
その背景には、西欧での砂糖消費の増加があります。
17世紀にカリブ海の西インド諸島での砂糖農場が発展し、イギリスで
砂糖入り紅茶が普及しました。加えて、政府の特恵関税の保護もあり、
18世紀に入り、イギリス領西インド諸島での砂糖生産が急増しました。
その過程で、砂糖農園での労働力として、奴隷の需要も増えました。
イギリス →(銃:ラム酒:繊維)→アフリカ
アフリカ →(奴隷) →西インド諸島
西インド諸島→(砂糖:綿花) →イギリス
という大西洋を舞台とした三角貿易です。
このように、大西洋三角貿易による奴隷貿易が盛んになると、大容量で
の輸送が可能な大西洋沿岸地域が貿易の表玄関となり、サハラ交易は表
から裏に回り、次第に衰退することとなりました。
商人達は、現地の人達に旧式の武器を渡し、他の部族を襲わせ、または仲介する
現地の商人を通じて奴隷を集めていましたが、ニジェール川河口付近を知って
いるだけで、その上流がどこかは知りませんでした。
他方、144年に、アフリカ大西洋側の現在のセネガルの地域を最初に訪れたのも
ポルトガル人で、以降、オランダ人、イギリス人、フランス人が続き、交易を
しましたが、セネガル川上流まで行く必要はありませんでした。
★資料:
4060 主要奴隷貿易路
(2)ニジェール川探索
1807年に、イギリス議会は、英帝国領内での奴隷貿易の禁止法を可決しました。
そうなると、植民地を奴隷貿易以外で運用するために必要であると、
ニジェール川の調査が始められました。
幾分事情が分かっていた大西洋岸から、
また、サハラ砂漠を越えての調査がなされ、何度もの失敗の結果、1830年に
ランダー兄弟によって、ニジェール川の河口への貫通が確認され、それ以降、
大規模の流域調査が続きました。
そして、ニジェール川中流域内陸の帝国の歴史も次第に分かって来ました。
ソンガイ帝国滅亡後は、小国分立の時代です。
次の帝国成立のきっかけとなったのは、1725年のイスラム聖戦の開始です。
これが始まったのは、フタ・ジャロンで、ニジェール川の水源と同じです。
1804年に、ハウサ王国の一つゴビール国で、フラニ人ダン・フォディオに
よってイスラム聖戦は始められ。同年にソコト帝国が成立し、1807年には
イスラム国家のハウサ王国は滅亡しました。
フラニ人は、ナイジェリアの東北部、ベヌエ川の上流の山岳地帯にアダマワ
首長国も成立させました。
振り返ってみると、ガーナ、マリ、ソンガイ三つの帝国は、後代になるにつれ、
次第に東進し、ソコト帝国に至って、ナイジェリア北部に到達し、イスラム化
を果たしました。
★資料:
4062 オヨ帝国
4064 ガーナ:マリ:ソンガイ:ハウサ
4071 フォータ・ジャロンでイスラム聖戦開始
4077 ソコト帝国
4079 アダマワ首長国
(3)ナイジェリア略史
外務省の資料によるとナイジェリアの歴史を以下のように概略しています。
(カッコ内は、追加コメント)
①11世紀~
カネム、ボルノ、ベニン、オヨなどの諸王国、並びにハウサ都市国家群が
建設される。
②12世紀~
ヨーロッパや北アフリカ地域とのサハラ交易が、現在のナイジェリア北部
地域を中心に盛んになる。イスラム教が伝わる。(北部ナイジェリアの時代)
③15世紀~
ナイジェリア南部地域を含むギニア湾岸沿いにおいて、ヨーロッパ諸国との
交易が始まる。(南部ナイジェリアの時代)
④1861年
ラゴスが英国により、植民地に併合される。
★この頃の日本の事情の年表(追加文)
この頃は明治維新前夜で、日本も危うかったと他人事でなく感じます。
1853年:ペリー来航
1855年:安政大地震
1858年:コレラ蔓延
1862年:はしか蔓延
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