8.荀子の性悪説 |
第八節:荀子の性悪説 ★参考資料[○○]の部分をクリックして御覧下さい。 戦国時代に、人間の本性は何か、を問う「人性論」がなされました。 告子「性無記説・白紙説」、孟子「性善説」、荀子「性悪説」が有名です。 韓非子が言う儒家八派の一派「孫氏の儒」に属する荀子は、孟子とは別の派で、 韓非子は、この荀子の楚時代の門下です。 「人の本性は善である。」とする孟子に対して、荀子は、「悪である。」としました。 「善悪」は対立する概念であり、双方の主張は完全に異なるとの誤解が今日もあります。 「悪は悪魔の悪か?」どうもそうではなさそうです。 「悪」という字は「亜」+「心」で、「亜」は「穴」つまり「空しい」意味です。 「亞」はまさに建築現場の穴です。 「悪」とは「弱い存在」の意味で、荀子は「性悪篇」で言っています。 「人の性は悪なり、その善なるは偽なり。」「偽」とは「人の行為」のことです。 つまり、人の本性は悪=弱いものだから善になるのには努力が必要、という主張です。 悪行の背後には空虚な心がありそれが悪事につながるという考え方です。 だからこそ「歎異抄」「善人なおもて往生を遂ぐ。況や悪人をや。」 つまり弱い存在こそ救われる存在だ、と言えるのです。 「性善説」「性悪説」は「善」が先天的に備わっているものか、それとも、後天的に獲得するものか、の違いであり、双方ともに善に向け努力することの重要性を説いていると言えます。 韓非子は「性悪説」を学びましたが、人の本性の議論を飛び越えて、人ではなく、国の在り様を問題としました。 しかし、個人の問題は残ります。 西欧式の「天使と悪魔」に相当する善悪の対立を強調することでは、独善的になりがちです。 現代では、システム開発などで、人には間違えることがあることを前提に、それをカバーする意味で性悪説が取られることがあります。 これこそ、荀子的性悪説と言えます。 いずれにしても、法術勢にせよ、人に働き掛けることが重要であり、自らを劣化させない努力が必要である、と痛感しました。 ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ [ 1.はじめに ] [ 2.諸子百家とその活躍の時代 ] [ 3.諸子百家の概略 ] [ 4.法家と墨家 ] [ 5.韓非子の「五蠹篇」「孤憤篇」 ] [ 6.諸子百家の交流、問答 ] [ 7.稷下の学士 ] [ 8.荀子の性悪説 ] [ 9.資料篇 ] ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★[○○]の部分をクリックし、元の画面にお戻り下さい。 [ HOME ] |
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