5.韓非子の「五蠹篇」「孤憤篇」 |
第五節:韓非子の「五蠹篇」「孤憤篇」 ★参考資料[○○]の部分をクリックして御覧下さい。 韓非子は、後日、秦の始皇帝となった秦王・政を感服させた書物である「五蠹篇」「孤憤篇」の作者です。 その出自は戦国七雄と称した七つの国の中で最も小さく、隣国秦の脅威に怯えっていた国・韓の王の公子でしたが、庶子にすぎません。 生来の吃音もあり国の要職に就くことは出来ません。 ただし学才は極めて優秀で、母国のため政治に携わろうと思っていました。 彼は齊から楚に戻った儒家の荀子から教えを受けました。 同門に彼を秦王に引き合わせたが、遂には死に至らしめた李斯もいます。 彼の著作を読み秦王は言います。 「作者に会って話し合えるならば死んでもかまわない。」 その後で、韓非子は韓からの使者として秦王に会うこととなりました。 しかし、彼の著作に感服したものの、彼の登用をためらっていた秦王に対し、李斯は「彼が秦に尽くすことなく、このままで韓に戻すのは如何か。」と進言し、秦王はこれを入れます。 この結果、韓非子は牢に入れられ、李斯差し入れの毒薬で自死します。 李斯は中国統一達成後、焚書坑儒を進言し、実行した後、権力闘争に破れ、無残な死を遂げます。 まず「五蠹(と)篇」で、韓非子は、今の世がもはや儒家や道家が理想とする古代とは異なり、元に戻れないと否定します。 それを心待ちにすることは、「待ちぼうけ」の故事のように切り株の前で兎を待つのと同様、愚かだと言います。 古代は人が少なく大自然の恵みで生活を賄えました。 でも今や倍々ゲームで人口が増えた結果、それに対応する資源の量が追い付かず、争いが生じる事態だ、と言います。 マルサスの「人口論」の世界です。 民を治める聖人君主は、かつては、道義や徳で競っていたが、後には智略や謀略で競い、今や、気勢や武力で争う状況、と彼は言います。 そんな中で、古代の聖王に習って「天下万民を愛し、民を見ること父母の如し。」の理想を再現するのは不可能だ、と言います。 国を治めるのは「仁」ではなく、「法」である、と断言します。 また彼は「儒家は学問で法を乱し、侠客は武勇で禁を犯す。しかし、君主は彼らを礼遇する。これこそが世の乱れる原因である。」と言います。 更に、合従連衡について、「合従は弱国を合わせて強国を攻める策、連衡は強国に従い弱国を攻める策だが、いずれも自国を保つ方法ではない。 そうするためには、国内政治を厳正にし、法律禁制を明示し、賞罰を確実に実施し、智恵をしぼり蓄えを増やし、民に決死の覚悟をさせ城の守りを固めさせることだ。」と言っています。 書物の表題の「蠹」は木を食い荒らす木食虫のことで、彼は君主が政策を実施するに際し、国家を穴だらけにする者、五つを上げています。 それは、儒家などの学者、遊説者、侠客、金持ち、商工業者です。 君主がこれらの者を除かず、勤勉な民を大切にしないのならば、国は衰退し滅びる、と言っています。 現代にも繋がる話だ、と言えます。 次は「孤憤篇」です。孤軍奮闘、孤立無援の韓非子の心情が、趙での人質暮らしの経験がある秦王の共感を呼んだと思います。 韓非子は法家です。法家は儒家が信じる「愛と道徳」を信じてはいません。 『孝ならんと欲すれば、忠ならず』との家と国家の論理の葛藤はなく、国家の論理しかありません。 これが韓非子が親しみにくい理由です。 韓非子は、「定法篇」「難勢篇」で、以下のことを記しています。 韓非子は君子に勧めます。民には「法」、臣下には「術」、対外的には「勢」です。 「法」とは君主が法律に基づき民を支配すること、「術」とは君主が「利」「威」という「アメとムチ」で臣下を使いこなすこと、「勢」とは、君主が「権勢」を背景に、国政や外交にあたることです。 これら法術勢を巧みに駆使することで、初めて国が維持できるのです。 韓非子など、これらを主張する「法術の士」に手強い敵がいます。 それは君主を取り巻き権力を握った重臣達です。 彼らは君主に近づく壁だけでなく、敵対する存在です。 自分の利益を侵害する者を蹴散らします。 もし君主に話せても、聞き入れられる保証はありませんが、君主の権力を強めることは国が生き残るための必要条件なのです。 こんな想いが熱く熱く語られている著作です。 ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ [ 1.はじめに ] [ 2.諸子百家とその活躍の時代 ] [ 3.諸子百家の概略 ] [ 4.法家と墨家 ] [ 5.韓非子の「五蠹篇」「孤憤篇」 ] [ 6.諸子百家の交流、問答 ] [ 7.稷下の学士 ] [ 8.荀子の性悪説 ] [ 9.資料篇 ] ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★ ★[○○]の部分をクリックし、元の画面にお戻り下さい。 [ HOME ] |
||