中国とナイジェリア 8.ビアフラ内戦   


第八章:ビアフラ内戦

ビアフラ内戦勃発前の状況は、第七章で触れましたが、簡単に纏めると以下の通りです。

東部州は、1960年のナイジェリア独立から1967年まで北部州、西部州と共に大幅な権限を持つ州で、イボ人が多数派を占め、州都はエヌグでした。

1967年に4州から12州制に移行するのに伴い、東部州は東部中央州、南東部州、リバーズ州の3州に分割される旨が発表されると、かねてから予算配分に不満があった東部州首相(軍政知事)のチュクエメカ・オドゥメグ・オジュクはビアフラ共和国として独立を宣言し、これを認めない連邦側と内戦が始まりました。

連邦側の軍の指揮官には、ゴウォン(第3代国家元首)、ムハマド(第4代国家元首)、オバサンジョ(第5代国家元首、第12代大統領)、ババンギダ(第8代国家元首)と錚々たるメンバーがいます。

ビアフラ共和国の承認国は、コートジボワール、ガボン、ハイチ、タンザニア、ザンビアに限られました。

当初、ビアフラ軍が優勢で、隣の中西部州 を占領し、さらに当時の首都ラゴスに迫りましたが、連邦側はイギリス、ソ連などの支援を受けて盛り返します。

他方、ビアフラはフランスから戦車や航空機などの武器援助を受け、対戦します。

しかし、1968年にビアフラ南部の海岸地帯が連邦側に占領されると、内陸に追い込まれ、補給路を断たれたビアフラ側では食糧不足で、餓死者が続出します。

ビアフラは首都エヌグが陥落後も、臨時首都をに移して抗戦を続けましたが、オウェリも陥落し、1970年1月12日、ビアフラの降伏で幕を閉じます。

★資料:
5049 戦況推移1
5050 戦況推移2
5051 戦況推移3
5052 戦況推移4

ビアフラ内戦戦況の推移01 ビアフラ内戦戦況の推移02 ビアフラ内戦戦況の推移03 ビアフラ内戦戦況の推移04


この内戦の当事者に大国が武器供与して参入した理由は、ビアフラ南部の海岸沿いは莫大な石油資源があったからです。

ビアフラ共和国の国旗は、国歌「 Land of the Rising Sun 」に因んで、昇る太陽を表わしています。 この国歌は、原曲がシベリウスの「フィンランディア」の曲に、アジキウェが作詞したものです。

ビアフラ共和国国歌    画面の [ ▷ ] をクリックすると、ビアフラ共和国国歌=National Anthem of Biafra (1967-1970)が流れます。



アジキウェ(当時63歳)は、ナイジェリアの初代大統領で、一世代下の同じイボ人のオジュク(当時34歳)に協力して、顧問、スポークスマンを務めました。建国の式典でしょうか、オジュクと並んだ写真があります。

アジキウェは、後に、ビアフラを離れ、連邦側から内戦の中止を訴えることとなります。
当初ビアフラを支持し、後刻連邦側に回ったのは、保身のため、とは言い切れません。

アジキウェは、内戦前の東部州での州知事(軍政長官)としてのオジュクを見ていたに違いありません。
少なくとも、ビアフラ共和国を建国したオジュクの考え方、理想を理解し、協力していたものの、現実の壁に直面せざるを得なくなり、現時点での理想追求を諦めたとも言えます。

そこで、オジュクの関係者、研究者の証言から、オジュクがどう考え、東部州で何をし、ビアフラで何をしようとしていたか、を見て行きたいと思います。

★資料:
5045 ビアフラ共和国
5040 ビアフラ地図&国歌
5042 アジキウェ&オジュク
5041 ビアフラ3分割

ビアフラ共和国 ビアフラ地図&国歌 アジキウェ&オジュク ビアフラ3分割

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関係者、研究者四人の証言です。

1.フレデリック・フォーサイス氏(ジャーナリスト:小説家:第一次クーデター時:28歳)

2.細見真也氏(ナイジェリアービアフラ問題理解のためにー:著者:第一次クーデター時:31歳)

3.アーサー・アグウンチャ・ヌワンクウォ氏(『ビアフラ建国記』共著著者:第一次クーデター時:24歳)

4.オコイ・アリクポ氏『近代ナイジェリアの発展』著者:第一次クーデター時:50歳)

5.オコイ・アリクポの略歴

詳しい証言内容は、見ていただくこととして、概要を以下述べます。

1.フレデリック・フォーサイスは、BBC放送の特派員として、戦時下のビアフラで取材を続けました。

彼は、オジュクに傾倒しており、「ビアフラ物語:飢えと血と死の淵から」を書きました。
その中では、内戦の経緯はもちろん、オジュクの経歴、東部地域での政治運営など、熱く語っています。

また、東部地域で功績があったオコイ・アリクポ氏は、第一次クーデター直後に東部地域を去り、翌年には、ナイジェリアの外務大臣となる記載があり、中国との関係でも、注目されます。
独立後にビアフラを離れたアジキウェより早い出国でした。

(朝日新聞の新聞記者、伊藤正孝氏も、崩壊直前のビアフラで取材をしています。「ビアフラ 飢餓で亡んだ国」)

2.ナイジェリア研究者の細見真也氏は、「オジュクの思想」につき、解説しています。

オジュクは、アフリカ人が植民地時代の所謂「奴隷根性」から脱却し、新しい時代を動かすために、イデオロギーを確立する必要があると、「平等の力学」を提唱しました。

3.アーサー・ヌワンクウォは、米国留学を終え、卒業と同時に独立宣言直後のビアフラ共和国に帰国、戦時下の情報省 で職務する傍ら、「ビアフラ建国記」を執筆しました。

ビアフラ崩壊直前の爆撃、飢餓がビアフラ人を追い詰めている状況。それは、コロナ禍の現状から僅かに類似が感じられる、途轍もなく壮絶なものです。
なにがあろうと、ビアフラの独立は維持されなければならないこと、オジュクに対する全幅の信頼感を示す記述で、「必ずや、成功を勝ち取る!」と自らを奮い立たせています。

4.オコイ・アリクポは、東部地域を去った原因は、オジュクがアクリポの提言を採用したものの、その実績を背景にアリクポが外務大臣の座を要求すると、オジュクが拒否したことにありそうです。(フォーサイス著)

①アリクポ(50歳)は、なぜビアフラ外相の座をもとめたのか?彼は、何をしたかったのか?
②オジュク(33歳)は、なぜアリクポの要求を拒否したのか?その実態は、よく分かりません。

ただ、アリクポは、ナイジェリアの「バルカン化」を拒否している一方で、自らもそうである少数民族の権利活動家でした。
そこで、彼は、東部地域の外相として、ナイジェリア連邦政府と、なんとか折り合いを付けようとしていたのか、とも思われます。
オジュクは、東部地域の多数派のイボ人です。老練な政治家アジキウェもイボ人です。東部地域の少数民族に、イボ人への絶対的な信頼感があったかは疑問です。他方、彼はエコイ人で、同じく少数民族アンガス人のゴウォンに親しみを覚えたのかも知れません。

アリクポは、連邦側に入り、ナイジェリア調停委員会の委員として、連邦サイドからビアフラと和平交渉を続けました。
オジュクもまた、垣間見えたアリクポの柔軟な外交姿勢に、ビアフラを任せられない、と思ったのかも知れません。いずれにせよ、アリクポは、ビアフラ側からは信頼できない相手とされたようです。

[ 1.フレデリック・フォーサイスの証言 ](フレーム右サイドノブ、画面をスクロール願います。)

[ 2.研究者の証言:オジュクの思想 ](フレーム右サイドノブ、画面をスクロール願います。)

[ 3.アーサー・アグウンチャ・ヌワンクウォの証言:THE MAKING OF A NATION:BIAFRA  MY PEOPLE SUFFER ]

(フレーム右サイドノブ、画面をスクロール願います。)



オジュ ク大統領のビアフラ国民への呼びかけ



独立当時のビアフラとオジュ ク大統領のインタビュー



[ 4.オコイ・アリクポの証言:「近代ナイジェリアの発展」序文 ](フレーム右サイドノブ、画面をスクロール願います。)



[ 5.オコイ・アリクポの略歴 ](フレーム右サイドノブ、画面をスクロール願います。)



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[9.おわりに & 資料編 ]

[0.中国とナイジェリア」冒頭画面]


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