中国とナイジェリア:7.イギリス植民地化以降、現代まで  


第七章:イギリス植民地化以降、現代まで

はじめに

1861年、ラゴスがイギリスの植民地に併合されて以降、現在に至る過程で、 ナイジェリアは独立し、その後、七度のクーデター、四度の軍事政権を経て、 現在、第四次共和政下にあります。この期間を六つの時期に分け、以下検討 していきます。

なお、第一期~第六期の政治動向、政治家、政党、各州分布に関する通期のデータは 資料編の該当個所をクリックしてご覧頂けます。

★資料:
5005 第一期~第六期

第一期~第六期


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(1)第一期:1861~1914:ナイジェリア植民地および保護領成立まで

ラゴスから始まったイギリスによるナイジェリア植民地化は、1914年に現在 のナイジェリア全土に及びました。
その過程で、イギリス貴族のゴルディーが王立ニジェール会社の総裁に就任し、 フレデリック・ルガードが植民地の知事の任にあたりました。

★資料:
5013 第一期 1861~1914 政治動向
5015 第一期 1861~1914 ナイジェリア植民地の推移
5017 第一期 1861~1914 ナイジェリア古地図:地域

第一期 1861~1914 政治動向 第一期 1861~1914 ナイジェリア植民地の推移 第一期 1861~1914 ナイジェリア古地図:地域


★資料:
5014 第一期 1861~1914 政治家

ゴルディー フレデリック・ルガード


(2)第二期:1914~1954:ナイジェリア自治領成立まで

ナイジェリアが植民地から自治領になるまでの時期です。
フレデリック・ルガード、フレデリック・リチャーズ、マクファーソンが総督を 務め、この間に、独立を見通した憲法素案が、リチャーズ、マクファーソン、 リトルトンによって作成されました。 そして、1960年に英連邦王国として独立し、イボ人のアジキウェが総督を 務めることとなります。

ナイジェリア全土を、北部、西部、東部、中央のベルト地帯と四つに分けると、 西部→東部→北部→ベルト地帯の順で政党が形成されました。

1923年にマコーレイ(ヨルバ人)がナイジェリア国民民主党を結党します。 ここからラゴス青年運動、ナイジェリア青年運動と続きます。

ヨルバ人主導の この党に加入していたアジキウェは、1941年に離脱し、1944年にイボ人 主導のナイジェリア・カメルーン国民評議会を結成します。
他方、ナイジェリア青年運動は、1951年にヨルバ人主導の行動党となります。

北部では、1949年にナイジェリア北部会議が北部人民会議となり、そこから 北部人民進歩同盟が分離し、ハウサ・フラニ人主導の政党が結成されます。
そして1957年には、統一中部ベルト会議が結党されます。

アジキウェは、三大言語のハウサ語、ヨルバ語、イボ語が話せ、アメリカの ハワード大学にも留学経験があり、当初は、ジャーナリストとして活躍した後に、 政治家に転身しました。

★資料:
5023 第二期 1914~1954 政治動向
5025 第二期 1914~1954 政党推移

第二期 1914~1954 政治動向 第二期 1914~1954 政党推移


★資料:
5024 第二期 1914~1954 政治家

フレデリック・リチャーズ マクファーソン リトルトン アジキウェ マコーレイ バレワ バレワ&ケネディ アミヌ・カノ アウォロウォ タレカ


(3)第三期:1954~1966:独立前後 第一共和制 ~ 一月クーデターまで

1954年にナイジェリア自治領となった後、1960年に英連邦王国の一員として 独立、1963年にナイジェリア連邦共和国となり、アジキウェが初代の 大統領となりました。

歴史学者トインビーは、1964年にナイジェリアを訪れましたが、当時の訪問の感想 を「ナイルとニジェールの間に」という著作に記述していますが、来るべき事態を既に 予測しています。

因みに、ナイジェリアのキリスト教徒の比率は51.3%で、北部 はイスラム教、南部はキリスト教と分かれています。

 

★資料:

5028 「ナイルとニジェールの間に」(歴史学者トインビー:著作)



★資料:
5033 第三期 1954~1966 政治動向
5035 第三期 1954~1966 政党推移
5037 第三期 1954~1966 州分布1
5038 第三期 1954~1966 州分布2
5039 共和制 1966.05.24

第三期 1954~1966 政治動向 第三期 1954~1966 政党推移 第三期 1954~1966 州分布1 第三期 1954~1966 州分布2 共和制 1966.05.24


★★★  第三期~第六期の概略(1963年10月 1日~現在)  ★★★

1963年から現在までの57年間は、前期(1963年~1993年)の30年間と、 後期(1993年~現在)の27年間とに分けて考えることが出来ます。
とりわけ、前期始まって二年後の1966年 1月15日の第一次クーデターは、 第七次まで続くクーデター、相次ぐ軍政の始まりとなるものでした。

第一次クーデターは、その後に政権を担った人々毎に、その影響が異なるため、 政治家の人物像に、第一次クーデター時の年齢を追記してみました。
因みに、1966年の第一次クーデター時の年齢は、便宜上、数え年となっていますので、ご了承下さい。

クーデターの実行者も含めて、政権を担った人々の年齢が、主に30歳台と 若く、それより年上の人が支えに回っているのが印象的です。

★資料:
5034 第三期 1954~1966 政治家

アジキウェ バレワ ベロ アキントラ




1964年の連邦議会選挙で、アジキウェ大統領(NCNC:イボ人)とバレワ連邦首相(NPC:ハウサ人)との対立が深刻さを増した中で、軍部はどちらに忠誠を誓うべきかを迷っている時点で発生したのが、第一次クーデターです。

1966年 1月15日に勃発した第一次クーデター(未遂)の首謀者は、ヌゼオグ大佐(イボ人)です。 このクーデターで、バレワ連邦首相、ベロ北部州首相(フラニ人)、アキントラ西部州首相(ヨルバ人)が暗殺されました。

(4)第四期:1966~1979:ビアフラ内戦を挟んで 第一次軍事政権

第一次クーデター後、連邦政府に事態収拾能力なく、軍部に全権委任し、イボ人のイロンシが国家元首に就任しました。イロンシは政党解散命令を発し、連邦制廃止による単一国家制導入を発表しました。

このことへの北部州の反発は強く、大規模な反対運動、騒乱、イボ人への迫害が発生します。ついには、7月29日第二次クーデターでイロンシが暗殺されます。

ナイジェリア国軍は、従来は上級将校はイボ人、下級将校、下士官は非イボ人、という構成でしたが、権力関係は逆転し、北部主導型となりました。そんな中で、北部軍人の多くは、北部州分離、独立を主張しました。それに対し、北部最古参のゴウォン中佐は、北部州分離は経済的、政治的に非現実的であると説得します。 そして、ゴウォン軍事政権が樹立します。

★資料:

5029 「ナイルとニジェールの間に」続編(歴史学者トインビー:著作)



ゴウォン軍事政権成立後、北部の都市カノのイボ人が多く住む居住地「ザボン・ガリ=ハウサ語:新しい町」で、ハウサ-フラニ人によるイボ人大量虐殺が起きます。

「ビアフラ戦争」を書かれた室井義雄氏は、ハウサ-フラニ人とイボ人相互を敵対させてきた要因を五つ上げています。

1.イボ人の居住地をザボン・ガリに限定されていたこと。
2.社会的・政治的性格の相違と、イボ人の経済的優位性
3.イボ人の同族会員団体のカノ支部の社会活動
4.宗教上の相違
5.政治的対立

虐殺は北部州各地にも飛び火し、一万人に達し、生命の危機となるこの事態に、カノ市など北部の多くの都市に住むイボ人は、北部を脱出し、その難民の数は百六十万人とも言われています。

ゴウォン国家元首・全軍最高司令官は、中央政府が強い影響力を持つ連邦制を主張し、イロンシの共和制移行を棚上げし、その上で、各地域の代表との諮問委員会を立ち上げます。そのメンバーには、暗殺された西部州のアキントラ首相と対立し、収監された後、恩赦で解放されたアウォロウォも含まれていました。

委員会での議題は、新州の増設問題でした。北部州委員は賛成したものの、東部州委員は、今はその時期ではない、と反対しました。しかし、北部でのイボ人の大量虐殺事件で、委員会が実質的に休止状態となりました。

ゴウォンは全軍最高司令官となったものの、その統率力は不安定であり、オジュク東部州知事は、ゴウォンの就任経緯に異議を唱えていました。

オジュク東部州知事がゴウォンを全軍最高司令官として承認しないと、東部州の軍が国軍から離脱することになり、国軍の分裂が国家の分裂になりかねない。オジュクに東部州での国軍の統括権を認めるか否かが大問題となりました。

その問題を議論するために、アブリ会議が開かれました。そこでの合意は、国軍、国家的問題の最終的決定権の所在は、全軍最高司令官個人ではなく、合議体としての最高軍事評議会にあり、加えて各州知事の合意が必要、というものでした。

ただし、これは基本原則であり、具体的な取り決めまでは整備されておらず、法的根拠としての布告を待たないうちに、ゴウォンは声明を発表し、アブリ合意の具体的な取り決めを緩い形で纏めて布告(布告第八号)しました。これに対し、オジュクは大反対します。

この布告に反発して、オジュク東部州知事は、連邦政府系企業の支店を接収、編成するための「公社布告」、東部州内で徴収された国庫歳入金の全額を東部州の歳入に組み入れる「歳入布告」、さらに、東部州の独自の最高裁判所を設置する「控訴審布告」を発出しました。 その背景には、東部州の不満がありました。

連邦全体に占める東部州の比率(1965年)は以下の通りです。
  輸出収入      :35%
  連邦税収からの交付金:14%
  人口比率      :22%

この動きに対するゴウォンの対応は、東部州を外交的、経済的に孤立させる措置でした。 連邦政府と東部州との抗争を「国内問題」とし、「歳入布告」は憲法違反として、経済封鎖を実施します。

こうした事態の中で、西部州、中西部州の首脳が、連邦政府と東部州の仲を取り持とうとし、ゴウォンの同意は得たものの時既に遅く、東部州の世論は、分離、独立へと傾いていました。

連邦政権は、1967年5月30日、ナイジェリアを従来の4州から12州に分割(東部州も3分割)とする旨、布告(布告第十三号)しましたが、オジュク中佐は、東部州議会の委託を受け、「ビアフラ共和国」として東部州の独立を宣言しました。

ビアフラ内戦は、世界の注目を集めながらも、1970年1月12日に、ビアフラ降伏で幕を閉じます。

その後、1971年:ナイジェリアは石油輸出国機構(OPEC)に加盟し、産油国の仲間入りとなります。加えて、1973年から1974年に掛けて、原油価格が高騰します。ナイジェリアにとって、原油の生産地であるニジェール・デルタ地域は、手放す訳には行かない宝の山です。
さらに、石油がらみの利権、汚職が蔓延し、今でも続いていると言われています。

ゴウォン政権は、1975年、軍の民政移行派(オバサンジョら)による第三次クーデターで終わり、ムハマド軍事政権となります。
1976年、第四次クーデター未遂事件でムハマドは暗殺され、オバサンジョが政権を引き継ぎます。
1977年、オバサンジョは新憲法を制定し、民政移行への方向付けをしました。  

★資料:
5043 第四期 1966~1979 政治動向
5047 第四期 1966~1979 州分布1
5048 第四期 1966~1979 州分布2

第四期 1966~1979 政治動向 第四期 1966~1979 州分布1 第四期 1966~1979 州分布2


★資料:
5044 第四期 1966~1979 政治家

( 1967~1970:ビアフラ共和国 存続期間  )

歴代15代元首:大統領の系譜1963~2020 1966年~現在までの政治年表 イロンシ ゴウォン オジュク ムハマド オバサンジョ エフィオン


★資料:
資料:5045 第四期 1967~1970 ビアフラ共和国

(5)第五期:1979~1999:第二共和制 ~ 第四次軍事政権

  1966年にイロンシ政権下で、政党解散命令が発せられましたが、1979年の大統領選挙に向け、1978年に、政党活動が解禁されました。 1979年の大統領選挙は、ナイジェリア国民党(NPN)のシャガリ(フラニ人)、ナイジェリア統一党(UPN)の アウォロウォ(ヨルバ人)の争いとなりましたが、シャガリが勝利します。

シャガリ政権は、市場の自由化、外交資本の導入に積極的でした。加えて、北部の経済開発にも熱心で、南部に比べて著しく送れていた北部の運輸、教育部門に多額の投資を行いました。ただし、経済開発、外国企業進出というかつてない急激な近代化、西洋化の動きは、北部イスラム教徒には受け入れがたいものがあり、それが、旧来からのイスラム原理主義運動(マイタシン運動)、そして現在のボコ・ハラムへと繋がっています。

1983年の選挙で、シャガリは、アジキウェ率いるナイジェリア人民党(NPP)の勢力を削ぐため、ビアフラ内戦の敗戦でコートジボアールに亡命中だったオジュクに恩赦を与え、ナイジェリア国民党(NPN)の上院議員選挙に出馬させました(結果は落選)。

その後、民間人ショネカンの短期間の暫定大統領の就任を除き、三回のクーデターを挟み、ブハリ、ババンギダ、アバチャ、アブバカルによる16年の軍事政権が続きます。

ブハリは、アウォロウォの大統領当選にも関わらず、クーデターで政権を奪取し、現在も大統領です。ババンギダも 大統領選挙の選挙結果を二回も認めなかったものの、引退を余儀なくされました。

アバチャは、1980年代の2回のクーデターへの関与が言われる「クーデター」の専門家とも言える存在で、自らがクーデターに会うことを恐れ、恐怖政治を行うこととなります。1994年には、裁判なしで国民の誰でも逮捕・拘留出来る法律を作り、元の国家元首オバサンジョ、ババンギダに当選を否定されたアビオラなどの政敵を逮捕しました。

加えて、オゴニ民族生存運動(原油生産により生活を圧迫されたニジェール・デルタ先住民、オゴニ人の民族的権利、環境に関する権利を代弁する社会運動)の環境活動家、ケン・サロ=ウィワを、国政世論を無視し、軍法会議に掛け、死刑にする蛮行を行ない、人権無視の独裁者として国際社会から非難を浴びました。

続いて、国家反逆罪によるオバサンジョへの死刑宣告、ノーベル文学賞受賞のショインカへの死刑宣告で、更に強い非難を浴び、非人道的な恐怖政治、蔓延する汚職から、ナイジェリアの国際的評価は二流国家と言われるまでとなりました。ただし、アバシャは、大統領二期目を前に、心臓病で不審な死を遂げたのでした。

アバチャの後、暫定国家元首となったのはアブバカールですが、彼は1999年の大統領選に向けて、オバサンジョを含む政治犯の釈放、政党の登録を開始しました。

★資料:
5053 第五期 1979~1999 政治動向
5055 第五期 1979~1999 政党推移
5057 第五期 1979~1999 州分布1
5058 第五期 1979~1999 州分布2
5059 第五期 1979~1999 州分布3
5060 第五期 1999 州分布と地域割

第五期 1979~1999 政治動向 第五期 1979~1999 政党推移 第五期 1979~1999 州分布1 第五期 1979~1999 州分布2 第五期 1979~1999 州分布3 第五期 1999 州分布と地域割


★資料:
5054 第五期 1979~1999 政治家

歴代15代元首:大統領の系譜1963~2020 1966年~現在までの政治年表 シャガリ ブハリ ババンギダ ショネカン アバチャ アブバカル


(6)第六期:1999~2020 第四次共和制 ~

5061 オバサンジョ

1999年の大統領選で、オバサンジョが第12代大統領に選出され、第四共和制が始まります。 第六期を迎えるまでの経緯については、下記のサイトが大変参考になります。

このレポートは、2000年2月に出されたものですが、オバサンジョの任期が8年、彼を引継ぎ、所属政党:国民民主党(PDP)政権が8年続き、2015年以降、全進歩会議(APC)の政権がとって替わります。 レポートの著者の期待に反し、オバサンジョには、民主派の希望だった司法長官ボラ・イゲの暗殺に関与した疑いが言われるほか、彼は腐敗政治家を次々逮捕しているものの、依然政府の腐敗は深刻で、ナイジェリアの汚職と腐敗が彼の時代になって最悪になったとも言われています。その状況は依然として変わっていません。

★★サイト紹介
[ ナイジェリア:第四共和制の行方:アジア経済研究所:望月克哉氏:編集 ]

[ サイト名 ]部分をクリックして下さい。

★その一部を引用させて頂きましたので、合せてご覧下さい。



大統領を二期務めたオバサンジョ(ヨルバ人)に続き、同じ人民民主党(PDP)のヤラドゥア、ジョナソンが大統領を務めましたが、2015年の大統領選挙では、軍事政権で国家元首となったブハリ(フラニ人)が再度、大統領となり、現在に到っています。

最近時の大統領選挙は2019年ですが、その時の選挙の状況は以下の通りです。 北部のイスラム教徒と、南部のキリスト教徒で、支持政党がはっきりと分かれています。

ブハリ大統領は、2023年まで任期がありますが、高齢で病気持ちでもあります。 副大統領のオシンバジョは、ヨルバ人で、夫人はアウォロウォの孫娘にあたります。 ブハリが彼を副大統領にした訳は、大統領選において、ヨルバ人の支持を得るため、と思われますが、 ブハリに何かあった場合には、オシンバジョに出番が回ってきます。 これは、アメリカのバイデン大統領とカマラ副大統領の関係と同じです。 色々と問題を抱えているナイジェリアにとって、希望の星として今後も注目していきたい、と思います。

★資料:
5063 第六期 1999~2020 政治動向
5065 第六期 1999~2020 政党推移
9040 2019年 大統領選挙の選挙結果
2013 キリスト教徒とイスラム教徒

第六期 1999~2020 政治動向 第六期 1999~2020 政党推移 大統領選挙の選挙結果 キリスト教徒とイスラム教徒


★資料:
5064 第六期 1999~2020 政治家

歴代15代元首:大統領の系譜1963~2020 1966年~現在までの政治年表 オバサンジョ ヤラドゥア ジョナソン ブハリ 第六期 2019 ブハリ大統領TICAD7 オシンバジョ


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[8.ビアフラ内戦 ]

[0.中国とナイジェリア」冒頭画面]


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