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   4.法家と墨家



第四節:法家と墨家

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百家を大別すると春秋時代からの御三家である儒家、道家、墨家、実務的に採用された法家を加えた四家、その他に分かれます。

 これら四家のうち、漢文などで既に馴染みのある儒家・道家以外の法家・墨家につき見ていきます。

 法家の先駆けに、春秋時代の齊で宰相だった管仲がいます。
内政改革に当たっては、土地柄を生かした産業振興、積極的人材登用をする一方、法を適用し相互監視をさせ、不正に対して厳罰対応をしました。
そこで、強兵に先立つ富国を実現でき、規律と国富が生まれました。

 兵家で、魏の将軍であった呉起は、政敵の讒言で楚に逃れましたが、法遵守の徹底、不要な官職の廃止など施策を行い、富国強兵で楚の国土を大幅に拡大したとして、法家の元祖とも見なされています。

 商鞅は、秦で二次にわたる変法を通じて法治主義による国政改革を断行し、秦を強大化させました。
韓非子は「法」を彼に学びました。

 申不害は韓の宰相で、法を整備し、公平な論功行賞を行うことで国に治め、韓の命脈を保ちました。
韓非子は「術」を彼に学びました 。

 慎到は、齊の「稷下の学士」の長老で、学士に影響を与えました。
韓非子は「勢」を彼に学びました。

 墨家は墨子が始祖とされ、博愛主義的な「兼愛」、攻撃的戦闘を否定する「非攻」を旨とし、民が支持する天を体現した君主や鬼神を信じるなど異色の思想です。

墨とは大工の墨壺とも言われ、職人気質の都市労働者に信奉者が多く、まさに「墨守」の語源です。
墨子を継いだ孟勝が呉起の軍の攻撃に破れ集団自決したように、一種の宗教結社の面もありました。

自ら戦争は仕掛けないが、自衛のため築城技術を持つなど実戦に備えた集団でもありました。
法家同様に中国統一に役割を果たした後、歴史から抹殺されました。

史記の記述は、僅か二四文字です。

 「勝てば官軍、如何に勝つか?」を問う実戦向け発想は、中国統一、平定後はもはや無用、更には害悪となったかも知れません。
創業後の守成時に、発想転換が必要かも知れません。
とは言っても、秦の平和時もごく短命に終焉しました。

韓非子は、今日、経営の書として読まれることが多いですが、君主の立場にない民には、法治は必ずしも心安らぐものではないのです。
 韓非子も自ら唱えた法治主義の儚さ、虚しさに道家、墨家の思想に救いを求めた面も認められます。

 韓非子は「顕学篇」で儒家八派、墨家三派と記しており、中国統一以前の両者の隆盛を伝えています。

故孔墨之後、儒分為八、墨李為三

始皇帝の中国統一に貢献した法家、墨家の思想ですが、その後、墨家は忽然と消え去って、以降、儒家、道家が永く中国社会に浸透します。

「戦国策の時代」に関連の記事を掲載しております。

[ 「戦国策の時代」より  ]

各法家の概略は以下の通りです。(中国のサイト:百度百科)

[ 管仲  ]

[ 呉起  ]

[ 商鞅  ]

[ 申不害 ]

[ 慎到  ]

墨子について、幸田露伴が書いています。(青空文庫)

[ 墨子:幸田露伴  ]

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[    1.はじめに               ]
[    2.諸子百家とその活躍の時代        ]
[    3.諸子百家の概略             ]
[    4.法家と墨家               ]
[    5.韓非子の「五蠹篇」「孤憤篇」      ]
[    6.諸子百家の交流、問答          ]
[    7.稷下の学士               ]
[    8.荀子の性悪説              ]
[    9.資料篇                 ]

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