『 篇別構成 』 


03.篇別構成

「荘子」を読む時に、布の縦糸と横糸の二方向から見ていきたい

と思います。縦糸は篇別構成で、横糸はその文章表現です。

まずは、篇別構成を見て行きます。



★「荘子」の篇別構成★

「荘子」は、三十三篇から構成されています。「内篇」と呼ばれる

最初の七篇、「外篇」と呼ばれる次の十五篇、「雑篇」と呼ばれる

残りの十一篇とに分かれています。



各篇の篇名は、次の通りです。

フレーム右サイドノブで画面をスクロール願います。




★これら三部構成は、西暦四世紀、西晉の郭象により伝えられたもの

ですが、これらの篇を「荘子」として体系化したのは、秦に継いで

中国再統一を果たした前漢の高祖劉邦の孫で、思想書「淮南子」を

編纂した淮南王・劉安と言われています。その証拠に、「淮南子」

(えなんじ)「道應訓」に、「荘子」の文言が引用されています。

故莊子曰:

「小年不及大年,小知不及大知,朝菌不知晦朔,蟪蛄不知春秋。」

 (人物)            (かいさく)(せみ)

此言明之有所不見也。

(此明の見ざる所有るを言うなり。)(明=小賢しい智恵)

また、老子と荘周の思想をまとめて「老荘」と呼ぶようになったの

も「淮南子」からですが、「外篇」以下は当初の「荘子」にはなく、

後世に追加されたものとも推測されています。



★内篇の中でも、最初の1「逍遙遊篇」2「斉物論篇」の二編には、

荘周の思想が最も端的に記されている、と言われています。



内篇では、1「逍遙遊篇」の「大鵬」の話に続いて、2「斉物論篇」

で、南郭子綦と顏成子游、齧缺と王倪、瞿鵲子と長梧子と、実在し

そうな架空の人物に問答をさせており、これは後で述べる重言です。







2「斉物論篇」の最後は有名な「荘周夢に蝴蝶となる」の説話です。

荘周曰く、うたた寝の夢の中で、一匹の蝴蝶となって、自由に空を

飛び回った後、ふと目が覚めた。でも自分が夢で蝴蝶となったのか、

否自分は蝴蝶で、夢で人間なのか、自分も蝴蝶も同じ自然物であり、

実在世界で、夢もまた現実、現実もまた夢、夢と現実がないまぜの

中で、渾沌として自由自在に変化する世界を、楽しく逍遙遊しよう

ではないか、と。



また6「大宗師篇」の顔回と孔子との「坐忘」問答が有名です。

「坐ながらにして一切を忘れ去る」ことで超越者の世界が成り立つ、

としています。この篇は、子輿がどん底生活中の友人子桑を訪れた

際の、子桑の溜め息で終わります。    「命なるかな、ああ。」

人間の貧富・貴賤・寿夭いずれも皆天命、この天命に安んじる所に

まさに生の歓喜があると説きます。







多くの問答で無心忘我の支配を述べた後、内篇最後の7「應帝王篇」

は、有名な「渾沌の死」で終わります。

南海の帝と北海の帝は、訪問を歓待してくれた中央の帝、「渾沌」

へのお礼に、人にあり、渾沌にはない目耳口鼻の七つの竅(あな)

を、一日一つずつ開けた所、渾沌は七日目に死んだという寓話です。

渾沌は、そのまま愛すべし。



内篇に限らず、外篇、雑篇にも面白い話が満載です。

荘子の思想は、確かに戦国時代にあっては、戦国七雄に入れられる

ことはありませんでした。

しかし、国が治まった後代の唐の全盛期の時代に、道家を信仰した

楊貴妃でも有名な玄宗皇帝によって、荘周には「南華真人」の号が

贈られ、書名も『南華真経』として賞賛されることとなりました。



★「荘子・内篇」の論理構成★

内篇の構成は、逍遙遊、斉物論、養生主、人間世、徳充符、大宗師、

應帝王、の七篇から成っています。

そこでは「不自由な現実の中で、人は、如何にして物事に囚われず、

自由でいられるか」が述べられており「人間の自由に関する叡智」

の哲学書、ということが出来ます。



★1「逍遙游篇(しょうようゆう)」★

「逍遙游」とは、心安んじて自由にそぞろ歩きを楽しむの意味です。

荘子では「何ものにも依存せず、制約なしに、それ自身が存在する

最高の超越的実在たる『絶対者』が行なう自由無碍の生活」こそが

あるべき姿である、としています。



★2「斉物論篇(せいぶつろん)」★

この「逍遙游」を支える考え方が「物をひとしくする論」、つまり

「万物がみな一つである」ことを理論付ける「斉物論」と言えます。

banbutsu


荘周は、物事の是非善悪の概念も、相対的で、絶対的ではないとし、

それらの概念を超越した絶対的なものを「道(タオ)」としました。

例えば、宇宙自然万物の始まりや終わりに関わる「道」は天道です。

差異に囚われた次元を超え、「道」の観点から見れば同じであると

するのが「万物斉同」の考えです。万物斉同にもかかわらず、物事

の差異に囚われることを、荘周は「朝三暮四」の寓話で揶揄します。





猿使いが餌の木の実を配分します。「朝三つ暮四つ、ではどうだ?」

猿は歯を剥き出し、猛反対します。「朝四つ暮三つなら、どうだ?」

猿は、歓声を上げて納得します。一日に木の実七つは変らないのに。

人も猿を笑えないのではないのか?寓言であり卮言かも知れません。



★3「養生主篇(ようせいしゅ)」★

ただ絶対者といっても、高き超越世界に住める訳はなく、現実世界

に住むために、生を養う根本の道「養生主」を知る必要があります。

「養生主篇」では、名料理人の庖丁の解牛の妙技と人生を全うする

養生の根本原理が語られます。



★4「人間世篇(じんかんせい)」★

現実世界で生を養うほかに、人間社会に関わる術を知る必要もあり、

「人間世篇」で、衛の国に乱れを正すために旅に出る弟子の顔回と、

その心構えを問う師の孔子の問答で示す「虚」(=虚心坦懐?)の

哲学が語られ、孔子と葉公子高の問答、顏闔と蘧伯玉の問答が続き、

最後には、孔子と狂接輿の問答で「無用の用」が重ねて語られます。



★5「徳充符篇(とくじゅうふ)」★

「徳充符」は、徳が充ちたる符、真に道を体得した人に備わる形象、

姿の意味ですが、世俗的な姿、形に囚われる愚かしさを哄笑します。

「徳充符篇」で、王駘、申徒嘉、叔山無趾、哀駘它という足切りの

刑を受けた前科者や、天下無類の醜男など、畸形不具な人達に道を

語らせることで、形象に囚われる世俗の愚かしさを哄笑しています。



★6「大宗師篇(だいそうし)」★

「大宗師」とは、大いにたっとぶべき師、つまり「道」「自然」で

あり、「道」を師とし、真に自由に生きる人を「真人」と呼びます。

「大宗師篇」では、「真人」が師とする「道」について説かれます。

「死生は命(めい)なり。」人間の生死は、「自然の理法」に従い、

如何ともし難いもの。この自然に絶対的に随順することで、人は真

の自由を得て、解放されるのです。



★7「應帝王篇(おうていおう)」★

「應帝王」は、帝王たるに相応しい超越者は、精神世界のみでは

なく、現実世界でも帝王たるべきとして、その術を提示しています。

そこで語られる政治的支配者の有り様、その理想とする所は、実は

「無支配の支配」「無為自然の治」です。


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[4.文章表現]



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